
こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、大坂夏の陣「天王寺口の戦い」!毛利勝永、徳川諸隊を次々と撃破!家康本陣に迫る…です。

(四天王寺)
■家康を辿る物語
慶長20年(1615年)5月7日、豊臣軍は、最後の決戦に向け大坂城から出陣。茶臼山・天王寺・岡山に展開して迎撃体制を敷きます。
茶臼山には真田信繁(幸村)を大将とする軍勢、天王寺口に毛利勝永率いる軍勢、岡山口には大野治房率いる軍勢が布陣しました。
一方の幕府軍は、茶臼山には水野勝成、松平忠直らの軍勢、天王寺口には本多忠朝や榊原康勝らの軍勢と徳川家康の本陣、岡山口には前田利常らの軍勢と徳川秀忠の本陣。
豊臣方の兵力5万に対して、幕府軍は15万もの兵力をもって、最終決戦の地に押し寄せました。
戦闘は正午頃、毛利軍による本多軍への銃撃をきっかけに開始されました。
未曽有の大兵力がぶつかり合う激戦のなか、毛利軍は忠朝を討ち取り、幕府軍先鋒の本多軍を壊滅させます。
さらに毛利軍は、本多軍潰走により混乱を来した二番手・榊原軍と三番手・酒井軍も相次ぎ撃破。これにより家康本陣は無防備になりました。
毛利軍の奮闘に呼応するように、松平忠直軍と交戦していた真田信繁(幸村)軍も、逸る忠直軍を交わして、徳川家康本陣に向けて進撃します。
風雲急を告げる「大坂夏の陣」。戦いの最終局面をむかえて、兵数では圧倒的に劣る豊臣軍に、家康の首をとる千載一遇の機会が訪れたのです。
■天王寺口の戦い
大坂夏の陣で、真田信繁(幸村)に劣らずの活躍をした武将がいます。毛利勝永(もうりかつなが)。
毛利姓ですが、中国を領する毛利氏と関係はありません。父の代から秀吉に付き随ってきた豊臣家の忠臣です。
関ヶ原合戦で西軍に与して改易。土佐の山内一豊のもとに預けられていましたが、大坂方からの要請を受けて秀頼のもとに駆け付けました。
関ヶ原などで戦功はあったものの、ほとんど無名だった勝永の名を高めたのが「天王寺口の戦い」です。
兵力で劣る豊臣方は、敵を四天王寺の狭隘な丘陵地に引きつけ、これを順次撃破していく作戦をとりました。
一方で、別働隊を組織して家康本陣に突入させ、家康の首取る…。乾坤一擲の作戦です。


(四天王寺)
勝永は、その一大決戦の要衝「天王寺口」に6500の兵を率いて布陣しました。
陣を置いた場所は四天王寺南門前とされます。残念ながら往時の史跡は残っていませんが、この付近で未曽有の激戦が繰り広げらたことは明らかです。


(四天王寺南大門)
この戦いで勝永は、徳川方先鋒の本多忠朝や小笠原秀政父子を討ち取るなど、大きな戦功を挙げました。
本多忠朝は徳川四天王・忠勝の子で、父に劣らぬ勇将でした。忠朝は陣頭に立って奮戦するも討死…。その墓は大阪天王寺にある一心寺の境内にあります。


(一心寺、本多忠朝の墓)
毛利軍の活躍はめざましいものでした。徳川方先鋒の本多軍に続き、榊原軍や酒井軍など徳川譜代の主力部隊も相次いで撃破。ついには家康本隊へと兵を向けます。
佳境を迎える大坂夏の陣。思いも寄らぬ毛利勝永軍の勇戦に、家康本人も窮地に陥ります。果たして戦いの行方は?
続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」にて綴ってまいります。
■基本情報
名称:四天王寺
住所:大阪府大阪市天王寺区四天王寺1丁目11−18
アクセス:大阪メトロ「「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩5分