大坂夏の陣「八尾・若江の戦い」!長宗我部盛親、木村重成、最後の戦い跡へ

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、大坂夏の陣「八尾・若江の戦い」!長宗我部盛親、木村重成、最後の戦い跡へ…です。

(左:長宗我部盛親物見の松、右:木村重成の墓)

■家康を辿る物語

慶長20年(1615年)5月6日、河内方面から南下する幕府軍を迎え撃つため、豊臣方の長宗我部盛親木村重成らが出陣。
長宗我部軍は南の久宝寺村に、木村軍は北の若江村に着陣しました。そこに徳川軍の先鋒・藤堂高虎軍が到着、戦端が開かれました。

藤堂軍は、長宗我部軍先鋒と交戦しこれを壊滅させると、長瀬川にいる盛親本隊に迫ります。
このとき盛親は、兵を長瀬川の堤防の上に伏せさせ、藤堂軍が近づいたところで一斉に立ち槍を入れました。これにより藤堂軍は混乱状態に陥ります。

一方、若江においても、木村軍が藤堂軍の攻撃を跳ね返し、これを退却させます。
このとき、道明寺に向っていた井伊直孝軍が若江に転進。木村軍と戦闘になると、はじめは一進一退の攻防となりますが、やがて木村軍が敗走。重成自身も槍を取って奮戦しましたが、力尽きて戦死しました。

八尾・久宝寺村で藤堂軍に勝利した長宗我部軍でしたが、そこに木村軍の敗報が届きます。
敵中で孤軍となるのを怖れた盛親は、戦場からの撤収を決めると、大坂城に退きました。

■八尾・若江の戦い

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、かつて土佐を領していた戦国大名です。
しかし関ヶ原合戦で西軍に与したため領国を没収されて浪人に。のちに豊臣方から土佐一国の贈与を条件に声がかかり大坂城に入城しました。

その盛親が再起を期して、最後の戦い「八尾の戦い」に望みます。
ゆかりの史跡が、盛親が軍を敷いたとされる八尾・久宝寺の地に残っています。それが、「長宗我部盛親 物見の松」です。
盛親は高い松の木に登り、八尾にいた藤堂軍の動きを探ったといわれます。その松はすでに無く、代わりに新しい松が植樹されていました。

(長宗我部盛親 物見の松)

木村重成(きむらしげなり)は、幼少の頃から秀頼に付き随ってきた豊臣譜代の重臣です。
大坂夏の陣では、長宗我部盛親と共に出陣し、盛親が八尾方面に展開したのに対し、重成は若江方面に展開し徳川軍と対峙しました。
重成ははじめ、徳川方の藤堂軍を敗走させるなど快進撃を見せますが、その後援軍として到着した井伊軍に蹴散らされます。このとき重成も討死しました(若江の戦い)。

(木村重成の墓)

その木村重成の墓が、八尾幸町の公園内にあります。落命した重成はまだ23か24歳だったとか…。
そこから徒歩5分ほど歩いたところに建つ「蓮乗寺」の境内には、木村重成の位牌堂があります。その中には凛々しい重成の肖像画が掲げられていました。

(木村重成位牌堂)

八尾・若江の戦いは、両軍しのぎを削る激戦となりました…。
豊臣方の木村重成は討死、長宗我部盛親隊も撤退して実質的に壊滅。徳川方の藤堂軍および井伊軍も大きな被害を受け、翌日の天王寺・岡山の戦いの先鋒を辞退せざるをえませんでした。

■基本情報

【長宗我部盛親 物見の松】
住所:大阪府八尾市久宝寺2丁目4−16
アクセス:近鉄「久宝寺口駅」より徒歩10分

【木村重成の墓】
住所:大阪府八尾市幸町6丁目2
アクセス:近鉄「若江岩田」駅から徒歩24分

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