城ぶら「沓掛城」!桶狭間へのカウントダウン…今川義元、運命の前夜

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、城ぶら「沓掛城」!桶狭間へのカウントダウン…今川義元、運命の前夜です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

沓掛城(くつかけじょう)の歴史は古く、室町時代初めには城が築かれたといわれます。
ただ、歴史ファンにとって最も熱いのは、やはり戦国時代のエピソードです。

当地は、尾張と三河の国境に近い交通の要衝にあるため、城主の近藤氏はそのときどきで、松平氏あるいは織田氏と、仕える先を転々としました。
そして天文20年(1551年)には、織田領への侵攻を狙う駿河の今川義元のもとに降りました

永禄3年(1560年)、今川義元は大軍を率いて西進を開始。5月18日、ここ沓掛城に入ります。当時の城主は近藤景春でした。
義元はここで、尾張攻めに向けた軍議を開き、大高城への兵糧入れや各武将の配置の再確認を行いました。

翌5月19日、今川軍は大高城に向けて、沓掛城を出立。その途中の桶狭間で休息をとります。
ここに、突如として織田信長軍が襲い掛かります。まさかの事態に今川軍は混乱。今川義元は桶狭間で首を討ち取られました
近藤景春は急いで沓掛城に帰還しますが、織田軍の攻撃を受けて落城。景春は討死しました。

桶狭間の戦いの後、勲功一番と称された梁田政綱に、恩賞として沓掛城が与えられました。
その後、織田信照、川口宗勝と織田家臣が城主を務めましたが、関ヶ原の戦いの後、宗勝が西軍に与したため敗戦後流罪に処せられ、沓掛城は廃城となりました。

■城ぶらり

それでは、今川義元が桶狭間の戦いの前日、最後の夜を過ごした沓掛城跡をぶら歩きしましょう。

沓掛城(くつかけじょう)跡はいま、沓掛城址公園(愛知県豊明市)として整備されています。
当地の案内板を見ると、城の形態は、本丸、二の丸、三の丸が連なる連郭式の縄張りで、東西約290m、南北約234mの広い範囲に及ぶことが記されています。

まず圧倒されるのが、本丸を取り囲む深い溝…。「空堀」跡が、状態よく残っています。
想像以上に深くて幅が広いです。もし自分が攻め手だったら、この堀を乗り越える間に上から攻撃されるのを想像して、ゾッとしました。

堀だけではありません。本丸の周囲をぐるりと土の壁が守ります。「土塁」跡です。
こちらも、今も形がはっきり残っていて驚きました。城の守り手は、この土塁の上から攻め寄せる敵を狙い撃ちしたことでしょう。

さらに北西隅には、出城のように「諏訪曲輪」が形成されています。
本丸より一段高い丘陵状となっているので、敵兵の監視などの役割も担っていたものと思われます。

城郭の中心部には、ここが歴史の舞台であることを示す「沓掛城址」の石碑が建っています。
広々とした本丸跡に立つと、ここであの今川義元が「明日は織田を叩くぞ」と作戦を練っていた姿が浮かんできます。
いまは静かな公園ですが、その土地には歴史の重みがギュッと刻まれていることに、なんとも言えぬ感慨を覚えるのでした…。

今日の夢中は、城ぶら「沓掛城」!桶狭間へのカウントダウン…今川義元、運命の前夜でした。
ありがとう、沓掛城! 戦国の歴史に残る城跡でした。

■基本情報

名称:沓掛城跡
住所:愛知県豊明市沓掛町東本郷11
アクセス:名鉄豊明駅からバスまたは車
開城時間:24時間

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