「是非に及ばず」の舞台へ!織田信長最期の地・京都「本能寺」歴史遺構巡礼

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、「是非に及ばず」の舞台へ!織田信長最期の地・京都「本能寺」歴史遺構巡礼です。

■本能寺の歴史と沿革

本能寺のルーツは、室町時代の応永22年(1415年)、日隆聖人によって開かれた「本応寺」にさかのぼります。
永享5年(1433年)に場所を移した際に「本能寺」と改称されました。その後、洛中法華21ヶ寺の一つに数えられるほど栄え、足利将軍家の保護を受けました。

やがて戦国時代になり、天下統一へ突き進む織田信長が京都での常宿として選んだのが、この本能寺でした。
当時の本能寺は周囲に深い堀や石垣を巡らせており、お寺でありながら城郭のような堅牢な構えだったと言われています。

そして運命の日がやって来ます。天正10年(1582年)6月2日未明に起きた「本能寺の変」
明智光秀が1万3千の軍勢を率いて本能寺を包囲。わずかな供回りしかいなかった信長は「是非に及ばず」と言い残し、自ら火を放って自害しました。

信長の死後、天下人となった豊臣秀吉の命により、天正19年(1591年)に本能寺は現在の場所へと移転を命じられます。
その後も、江戸時代の「天明の大火」や幕末の「蛤御門の変(禁門の変)」など、何度も火災に見舞われながらも、その都度力強く再建され、現在の本能寺へと受け継がれています。

■本能寺の見どころ

それでは、「本能寺の変」の舞台、織田信長最期の地、本能寺をぶら歩きしましょう。

本能寺の入り口にあたる表門。そこにある「本能寺」の文字をよーく見ると、「能」という字の右側のつくりが「ヒ」ではなく、「去」を模した別の漢字(異体字)になっています。
これは、本能寺が過去に何度も大火に遭ったことから、「これ以上、火(ヒ)が出ないように」という願いを込めているのだとか。

その大火の一つが「本能寺の変」です。信長が放った火により、壮麗だった伽藍は完全に焼け落ちてしまいました。
戦乱や災難によって5度の焼失、7度の再建を繰り返してきた本能寺。現在の本堂は、昭和3年(1928年)に再建されたものです。

本堂の右手を奥へと進むと、戦国ファンが絶えない聖地「織田信長公廟」があります。
これは変の後、信長の三男である織田信孝の命によって建立されたもの。伝承によると、この石塔の下には信長の愛刀が収められているそうです。

(織田信長公廟所)

遺体が見つからなかった信長にとって、ここはまさに魂の眠る場所といえます。
すぐ隣には、森蘭丸をはじめ信長を守るために命を懸けて戦った家臣たちの供養塔も並んでいます。背筋が伸びるような歴史の重みを感じました。

(左:家臣らの供養塔、右:織田信長公廟拝所)

境内にある大寶殿宝物館では、本能寺に伝わる貴重な寺宝が展示されており、訪れた日は特別に「名刀展」が開催されていました。
これがもう、信長ファンにはたまらない…。新たに復元された信長2つの愛刀が展示されていました。
一つが、本能寺の変の際も最後まで手に握っていたと伝わる「実休光忠」。もうひとつが、こちらも本能寺の変で焼失したとされる幻の短刀「薬研藤四郎」です。

(実休光忠(復元))

歴史の波に消えたはずの2つの名刀が、現代の匠の技によって見事に蘇り、目の前で怪しいまでの輝きを放っている姿は圧巻の一言
展示会場では、実休光忠の試作品を実際に手に持つこともできます。これが驚くほどずっしり…。信長の最期の瞬間を思わずにはいられませんでした。

今日の夢中は、「是非に及ばず」の舞台へ!織田信長最期の地・京都「本能寺」歴史遺構巡礼でした。
ありがとう、本能寺! ありがとう、織田信長!

■基本情報

名称:本能寺
住所:京都府京都市中京区下本能寺前町522
アクセス:地下鉄「京都市役所前」駅下車すぐ、京阪「三条駅」から徒歩約5分
開場時間:6:00~17:00

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