
こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、大坂の陣の引き金「方広寺鐘銘事件」!鐘に刻まれた"国家安康""君臣豊楽"をめぐり緊張走る…です。

■家康を辿る物語
慶長19年(1614年)、思いがけない事件が起きます。のちに「方広寺鐘銘事件」とよばれるものです。
そもそも方広寺は文禄4年(1595年)、豊臣秀吉が大仏を安置するために創建しました。しかしその後、大仏は慶長伏見地震により倒壊…。
秀吉の死後、その遺志を継いだ秀頼が大仏の再建に着手しますが、慶長7年(1603年)鋳造中の大仏から失火。炎上して頓挫しました。
慶長12年(1607)、秀頼は片桐且元を奉行として、再び大仏および大仏殿の建立に着手します。これには徳川家康も協力しました。
まず大仏が鋳造され、大仏殿も完成。慶長19年(1614年)4月には梵鐘も完成し、徳川家康の了承のもと、あとは8月の大仏殿供養を待つばかりとなりました。
しかし7月に入ると、徳川陣営からさまざまなクレームが入ります。
特に徳川方が問題視したのは、梵鐘に刻まれた銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の二句でした。
前者には家康の諱を分断して呪詛する意図があると指摘し、後者には豊臣を君主と仰ぎその繁栄を願うものであると糾弾しました。
こうして「方広寺鐘銘事件」は徳川・豊臣両家の間に楔を打ち込み、それはやがて大阪の陣へとつながっていくのです。
■方広寺
方広寺鐘銘事件。豊臣秀頼による大仏・大仏殿再建に際して、同寺に納める梵鐘の銘文を巡って生じた諍い事件です。
徳川家康が鐘に刻まれた銘文に難癖をつけ、大坂の陣を招くきっかけとなりました。
問題となった銘文は、「国家安康」「君臣豊楽」の二句でした。
家康は、「徳川を分断して、豊臣の繁栄を願うものである」とやり玉にあげ、大仏殿供養の延期を求めました。
この梵鐘は今も残っています。場所は京都東山、豊臣秀吉を祀る豊国神社の隣り…。
そこにひっそりと建つ方広寺本堂の目の前に、問題の鐘楼はありました。


(左:豊国神社、右:本広寺本堂)
目を凝らすと、梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字を確認することができます。
分かりやすくするように、後世のひとが白く塗ったのでしょうね。逆に言うと、そうした目印がないとなかなか見つけることは難しい…。


(本広寺梵鐘)
ただ、家康は梵鐘にこの文字をあることを見つけて問題視。朱子学者の林羅山や五山の僧に梵鐘の銘文を解読させました。
すると、羅山は「国家安康は、家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛している」と断言。さらに銘文前文の「右僕射源朝臣家康公」についても、右大臣の秀頼が家康を射るものだと糾弾しました。


(左:鐘楼の天井画、右:大仏の遺物)
こうして、二条城会見を契機に宥和に動くかに見えた徳川・豊臣の関係が一気に緊迫します。
目前に迫っていた大仏殿の落成供養は直前になって延期。豊臣方は宿老の片桐且元を釈明に向かわせますが…。
続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」にて綴ってまいります。
■基本情報
名称:方広寺
住所:京都府京都市東山区茶屋町527−2
アクセス:京阪電車「七条駅」下車、徒歩約8分
拝観時間:9:00~16:00