
こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。
今日の夢中は、城ぶら「興国寺城」!北条早雲旗揚げから壮絶な奪い合いの舞台となった戦国の城です。

■城語り
まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。
興国寺城(こうこくじじょう)は、戦国時代に関東一円を支配した北条氏の祖である北条早雲の旗揚げの城として知られます。
北条早雲は初め伊勢新九郎盛時と称し、室町幕府の官僚であり今川氏の客将でしたが、今川氏の家督争いでの活躍により、富士郡下方12郷を与えられ興国寺城主となったとされます。
早雲はその後、伊豆国を治めていた堀越公方足利茶々丸を襲って滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移りました。
その後、興国寺城は戦国大名による領地争い境界の城として、今川氏、北条氏、武田氏が奪い合いました。
幾度もの争奪戦を経て、戦国末期には武田氏の領する城となりますが、その武田氏が滅亡すると興国寺城は徳川領となりました。
関ケ原合戦後は、徳川家康の家臣・天野康景が1万石を得て興国寺城の城主となります。
しかし康景は領内の問題で責めを負いその裁定に不満を募らせて出奔、慶長12年(1607年)興国寺城は廃城となりました。


■城ぶらり
それでは、北条早雲ゆかりの戦国の城、興国寺城跡をぶら歩きしましょう。
続日本100名城のひとつに選定されている名城です。
興国寺城は、城郭の構造としては、「連郭式平山城」に分類されます。
麓の三の丸から、二の丸、本丸と、なだらかな斜面に沿って、郭がつながっています。


緩やかな坂道を上って、「二の丸」跡へ。すぐ奥に本丸がみえます。
もともとは、この間に堀があったらしいですが今はありません。ただ、本丸の方が一段高くなっています。


その一段高い「本丸」跡へ。訪れた時期は、ちょうど春の桜の時期でした。
咲き誇る満開の桜に、しばし目を奪われました…。絶景ですね。日本の四季は彩り豊かで美しい…。


本丸は、コの字型の土塁で囲われています。
この土塁が圧巻…。そびえ立つような土塁は、一番高い北側で10mほどあります。東側も西側も4~5mはあるんじゃないでしょうか。


その北土塁のたもとに、2人の城主の石碑が建っています。
1人は、初代城主の北条早雲。もう一人が、最後の城主となった天野康景です。


その2つの石碑の隣りには、穂見神社が鎮座しています。安政4年(1857年)の建立。
安政の大地震による津波の塩害から凶作が続いたために、農業神である「高尾山穂見神社」を勧請したと伝えられます。


北土塁を歩いて上って行くと、その途中、頂部を支えような石垣が残っていました。
高さ3~4mほどでしょうか。ワイルドな野面積みです。これは天守台の石垣の跡と考えられます。


土塁の頂部が、天守のあった「天守台」と伝わる場所です。
発掘調査の結果、2棟の礎石建物があったことが判明しています。ただ、瓦が発掘されなかったので、一般的な天守がそびえていたとは考えにくいのだとか。


この天守台から、城下と街を一望できます。
ここに建物を築くことで、城下の動向を睥睨するとともに、城主の権威を誇示していたのかもしれませんね。


ただ、その後ろ側を見ると、血なまぐさい戦国の城の一面があらわれます。
本丸のさらに北側、本丸と北曲輪の間に、巨大な堀切が築かれているのです。


これまた圧巻…。「大空堀」と呼ばれる堀切は、深さ約15〜20m、幅22〜30mと巨大です。
この大堀切には階段で降りていけます。攻め入る兵の気持ちになって、底部から見上げるとその高さに攻める意欲が失せます。これはすごい…。


この大空堀を隔てた先に築かれているのが「北曲輪」です。
こちら側でも守備兵が待ち構えているんだから、攻め入る兵はたまったもんじゃないですね…。


いやぁ、興国寺城は迫力満点、見どころ満載の城でした。
特に、本丸の土塁と大空堀はぜひ現地で体感されることをおススメします。貴方なら、この城をどう攻略しますか?
今日の夢中は、城ぶら「興国寺城」!北条早雲旗揚げから壮絶な奪い合いの舞台となった戦国の城でした。
ありがとう、興国寺城!
■基本情報
名称:興国寺城
住所:静岡県沼津市根古屋
アクセス:JR「原駅」から徒歩約30分、またはJR「沼津駅」からバス