城ぶら「駿府城」!家康、駿府に移る。"大御所政治"の拠点として築いた巨城跡

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、城ぶら「駿府城」!家康、駿府に移る。"大御所政治"の拠点として築いた巨城跡です。

■家康を辿る物語

慶長10年(1605年)、徳川家康は将軍職を息子・秀忠に譲ります。しかし政治的な影響力は持ち続け「大御所」と呼ばれるようになりました。
家康は駿府に拠点を置くことを宣言すると、諸国の大名に命じて駿府城の普請を開始(天下普請)。慶長12年(1607年)に駿府城に移ります。世に言う「大御所政治」の始まりです。

家康の駿府・大御所政治は、秀忠の江戸・幕府政治を補助するような役割を果たしました。
主に朝廷・寺社・西国大名・外交を担当しましたが、家康の権威や有能な家臣団(駿府年寄衆)もあって、政治のあらゆる側面に影響力をもっていたことが窺えます。

家康はその前に2度、駿府で過ごしています。今川の人質として過ごした幼少期、そして織田信長との同盟時代に領有した壮年期です。
3度目の駿府は、天下人となった家康の晩年期でした。大御所・家康は65歳から75歳までの約10年間を駿府で過ごすことになるのです。

■駿府城

将軍職を退き「大御所」となった家康。駿府に隠居することを宣言しました。
家康は、駿府城を天下普請によって大改修し、他に類をみない大規模な城郭を建造します。

その城郭は、輪郭式で石垣を廻らせた3重の堀を持ち、本丸の北西に5重(または6重)7階の勇壮な天守を配置していたと言われます。
隠居しても采配をふるう気満々ですね…。残念ながら、寛永12年(1635年)の火災により天守等のほとんどの建物は焼失。その後も規模は漸次、縮小していきました。

いま当地では、明治期に取り壊され埋められた天守台の発掘調査が行われています。
これまでの調査で、駿府城の天守台は南北約68m×東西約61mに及ぶことが判明。これは、日本最大とされてきた江戸城の天守台(約45m×約41m)を凌駕する規模です。

さらに、家康が天下普請により築いた慶長期の天守台のほかに、それより前に秀吉が築かせた天正期の天守台の石垣も見つかっていて、歴史ファンには胸アツ…。
二つの石垣は作り方が異なっていて、慶長期の石垣は加工した遺志を積む「打込接」(うちこみはぎ)という工法。一方、天正期の石垣は自然石を積む「野面積み」(のづらつみ)という工法。
これは石垣ファンにはたまりませんね。しかも、徳川と豊臣の因縁深い2つの石垣…。

はてさて、そんな天正期の豊臣の天守台の上に、新たな慶長期の天守台を築いた徳川家康
大御所として入城したときには、大坂に豊臣秀吉の子・秀頼が存在。なおも徳川に従わず、不穏な動きを見せていました。

大御所として徳川政権の安定化をめざす家康の目に、戦乱の火種くすぶる豊臣方の存在はどのように映ったのでしょうか。
やがて、その小さな火種は、大きく燃え広がっていくことになるのです。続きはまた、当ブロブ「夢中図書館 いざ城ぶら」で…。

■基本情報

名称:駿府城跡
住所:静岡県静岡市葵区駿府城公園1−1
アクセス:静岡駅から徒歩15分

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