北政所ねねが秀吉を偲んで月を眺めた京都「高台寺」!豊臣と徳川の和睦の行方は?

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、北政所ねねが秀吉を偲んで月を眺めた京都「高台寺」!豊臣と徳川の和睦の行方は?です。

■家康を辿る物語

戦国の世を駆け抜けた一人の強い女性がいました。その女性の名は、ねね
豊臣秀吉の正室。「北政所」(きたのまんどころ)という通称でよく知られる女性です。

秀吉を無名時代から支え続け、秀吉没後は、側室・淀殿との間に生まれた秀頼の後見として豊臣家の存続に尽力しました。
関ヶ原合戦後は秀吉の供養に専心していましたが、慶長8年(1603年)、秀吉の遺言であった秀頼と千姫(徳川秀忠の娘/家康の孫)の婚儀を見届けたことを契機に落飾。「高台院」と称しました。

その謹直な姿勢に家康の信頼も厚かったようで、家康の後援のもと京都東山に高台寺を建立。その門前に移り住みました。
慶長10年(1605年)、家康から秀忠に将軍位が譲られると、豊臣家の存続を願う高台院は、家康の依頼を受けて、秀頼に新将軍・秀忠と対面するように要請します。

高台院としては、天下人の座はもはや徳川のもの。豊臣はその体制のもと徳川と共存していくしかないと思ったのかもしれません。
しかし、秀頼はこれを拒絶。一説には、母の淀殿が「徳川の臣下となるなら秀頼を殺して自害する」と言い放ったとか…。こうして、徳川と豊臣の和睦の道は遠のくこととなったのです。

■高台院

豊臣秀吉の正室、北政所ねね。そのゆかりの寺社、京都東山にある「高台寺」を訪れました。

高台寺は慶長11年(1606年)、豊臣秀吉の菩提を弔うために、北政所ねねが開創した寺です。
造営にあたっては、徳川家康が全面的に支援を行ったため、寺観は壮麗をきわめたといいます。

度重なる火災によって、数々の堂宇が失われましたが、現在でも開山堂や観月台、霊屋などが当時のまま残っています。
その一つ「開山堂」は、創建当初は北政所の持仏堂であったところ。高台寺開山である三江禅師の坐像や北政所の兄である木下家定夫妻の木造が祀られています。

開山堂をはさんで、両側に2つの池を配した蓬莱式庭園は見事です。
この池にかかる「観月台」も当時のまま残っている史跡。ここから北政所は、亡き秀吉を偲びながら月を眺めたといいます。

開山堂の奥に建つのが「霊屋」(おたまや)。秀吉と北政所を祀る廟堂です。
両者の木造が安置されていて、須弥壇や厨子には「高台院蒔絵」と称される桃山時代の華麗な蒔絵が施されています。

「傘亭・時雨亭」も創建当時の佇まいを今に伝える史跡。高台寺の茶室です。
秀吉は茶が好きだったんですよね…。なんとも風流な姿は、いずれも利休好みと伝わる茶室です。

この高台寺で秀吉の菩提を弔っていた北政所(高台院)のもとに、豊臣秀頼と徳川秀忠との対面をとり持ってほしいという依頼が入ります。
依頼主は徳川家康。天下泰平のためには、徳川と豊臣の和合が必須。北政所(高台院)は、その実現に向けて動きますが、残念ながら大坂城の淀殿には受け容れられませんでした。

■基本情報

名称:高台寺
住所:京都府京都市東山区 高台寺下河原町526
アクセス:JR京都駅から市バス「東山安井」下車、より徒歩5分
拝観時間:9:00~17:30 ※特別期間はライトアップ夜間拝観あり。

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