関ヶ原前哨戦「大津城の戦い」!京極高次、懸命の籠城戦…猛将・立花宗茂を足止めす!

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、関ヶ原前哨戦「大津城の戦い」!京極高次、懸命の籠城戦…猛将・立花宗茂を足止めす!です。

■大津城の戦い

石田三成が中心となって毛利輝元や宇喜田秀家らが集結。反家康の西軍が構成されます。
そんな中、それまで西軍に従うかに見えた大津城主・京極高次が突如、東軍に寝返ります。

高次は手勢3,000人を率いて大津城に籠城。防備を固めました。
大津城は琵琶湖に面した舟運基地であり、東海道・中山道を城下に束ねる交通軍事の要衝、西軍にとって失ってはならない城でした。

慶長5年(1600年)9月7日、毛利元康や立花宗茂ら総勢1万5千の軍勢が大津城を包囲します。
寡兵の城方は夜襲を仕掛けるなど抵抗を見せますが、精鋭で知られる立花軍の攻撃に次第に追い込まれていきました

それでも降伏勧告に応じず徹底抗戦の構えを見せる高次でしたが、北政所からの説得もあり、ついに開城を決意。
剃髪染衣の姿になって、宗茂のもとに降りました。奇しくもその日は慶長5年9月15日。関ヶ原の戦い当日でした。

(琵琶湖)

■大津城跡

大津城主・京極高次。妹は豊臣秀吉の寵愛を受けた側室、妻は浅井三姉妹の次姉・初。
関ヶ原の前夜、高次は近江大津6万石を領していましたが、それは自身の功ではなく妹や妻の尻の光(閨閥)に拠ったといわれ、陰で「蛍大名」と揶揄されました。

そんな高次が突如として、東軍に寝返ったものだから西軍は大慌て…。主力の毛利元康や立花宗成ら総勢1万5千の兵を大津城に向かわせました。
もっとも高次は最初から家康に通じており、東軍の一員だったという説もあります。高次が見かけ上は西軍に応じる姿を見せたため、三成らは気づかなかっただけだとか…。

その京極高次が領した大津城は、近江国大津(現在の滋賀県大津市)の琵琶湖に面した地にありました。
関ヶ原の戦いの後、廃城となったために当時の遺構はほとんど残っていません。本丸があったとされる琵琶湖のほとりに「大津城跡」の石碑が建っています。

当地は交通上も軍事上も要衝であったことから相当な規模の城郭が築かれていたようです。
二の丸・三の丸は内陸部に広がり、いまは商店街の一角に当時の石垣のあとを見ることができます。

大津城の戦いは9月7日から15日まで続きました。この間、蛍大名と揶揄された京極高次は、猛将と名高い立花宗茂の攻撃を懸命にしのぎ続けました。
大津城が開城した日は、奇しくも慶長5年9月15日、関ヶ原の戦い当日でした。そのため、立花宗茂ら1万5千の鋭兵は関ヶ原に辿り着けず、途中で大坂城に引きあげることとなりました。

のちに関ヶ原に勝利した徳川家康は、高次が西軍1万5千をくぎ付けにした功績を称賛し、若狭一国8万5千石を与えて功に報いました。
「大津城の戦い」で懸命の籠城戦を繰り広げた京極高次。蛍大名と揶揄されましたが、決して凡将ではなかったようです。後年さらに加増されて若狭小浜藩の初代藩主に。街路を整備し新たな街区を設けるなど小浜の街づくりに貢献しました。

■基本情報

名称:大津城跡
住所:滋賀県大津市浜大津5丁目2−29
アクセス:京阪電車「浜大津」駅から徒歩1分

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