豊臣軍の攻撃を耐え抜いた城「忍城」!"のぼうの城"の舞台"忍の浮き城"へ

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、豊臣軍の攻撃を耐え抜いた城「忍城」!"のぼうの城"の舞台"忍の浮き城"へ…です。

■豊臣軍の攻撃を耐え抜いた城

豊臣秀吉の大軍による北条攻めにより、天下の堅城・小田原城も落城しました。
そのような中で、豊臣方の圧倒的な攻撃を耐え抜いた城があります。武蔵国にある忍城(おしじょう)です。

関東周辺の諸城攻略を進める豊臣軍。忍城には、石田三成や大谷吉継ら2万を超える軍勢が攻め込みました。
一方、守る忍城は、当主の成田氏長が小田原城に増援に出ており当主不在。城は一族の成田長親らわずかな留守部隊と近隣の領民だけの脆弱な布陣でした。

石田軍は、圧倒的な兵力をもって城を攻撃しますが、忍城は沼や川を天然の堀とした堅城であり容易に落とすことはできません。
そこで三成は、秀吉の指示もあって利根川の水を利用した水攻めを決断、全長28㎞にもなる長大な貯水提(石田堤)を築きました。

しかし、予想に反して利根川の水量が貧弱なため、水攻めの効果は限定的…。
その後の豪雨で本丸が水没しそうになりましたが、城方が堤防を一部破壊。そこから決壊して、逆に豊臣方に溺死者が出ました。

その後の再三の攻撃も忍城は必死になってしのぎます。そして迎えた小田原合戦終結のとき…。
このとき小田原城は降伏開城、周囲の支城もことごとく落城。唯一残った忍城も、小田原にいた氏長の説得により、ついに開城することとなったのです。

■忍城

豊臣軍による関東小田原攻めを耐え抜いた城、忍城(おしじょう)。
その攻防戦は、映画化もされた小説「のぼうの城」(和田竜著)で大きく注目を集めました。

のぼうの城(上)/和田竜

圧倒的な兵力で忍城に押し寄せる石田三成率いる豊臣軍。その兵数は約2万
一方、守る忍城は城主不在。しかもその戦力は、侍や足軽などわずか500…領民を合わせてやっと3000人でした。
絶体絶命の籠城戦…。このとき城主不在の忍城で総大将を務めたのが、小説の主人公「のぼう様」こと成田長親でした。

そんな「のぼうの城」の舞台、忍城を城ぶらしましょう。
忍城は、北条領内の武蔵国…現在の埼玉県行田市にありました。築城は室町時代の中期、地元の豪族であった成田氏によって築かれたとされます。

城跡は現在、城址公園として整備され、自然に囲まれた憩いの場となっています。
本丸跡には行田市郷土博物館が建っています。館内には多くの資料が展示されており、古代から現代にいたる行田市の歴史と文化を学ぶことができます。
もちろん、戦国期の小田原攻めに関する展示もあります。成田氏の甲冑も展示されていました。

また、郷土博物館の南には、往時の城を伝える本丸土塁跡が残っています。もしかしたら、この土塁が石田軍の水攻めから城内を救ったのかも…。
そのすぐ近くには、かつての藩校「進修館」の表門であったと伝わる門が移築現存しています。

石田軍による忍城攻撃においては、約28㎞に及ぶ堤防(石田堤)を築いてで利根川の水をせき止め決壊させる水攻めが行われました。
しかし忍城は落城することなく持ちこたえたため、この城は水に浮くのかと「忍の浮き城」と称されたといいます。

(東門と水堀)

そんな伝承も思い起こすような風景が、城址公園の東側に見ることができます。
忍城の東門と水堀、そして再建された御三階櫓…。御三階櫓は郷土博物館の一部となっており、内部に足を運ぶこともできます。

(御三階櫓)

それにしても、よくぞこの城で、しかもわずかな兵で、豊臣軍の攻撃をしのぎ切れたものです。
小説のように「のぼう」(でくのぼう)であったかどうかはともかく、成田長親は少なからず人心を掌握していたものと思われます。

その成田長親ですが、忍城開城後しばらくすると、当主・氏長との不和から成田家をはなれ流浪の身となります。
史料によれば、後に剃髪して自永斎と号し尾張で隠居したのだとか。慶長17年(1613年)、67歳で生涯を終えました。

■基本情報

名称:忍城
住所:埼玉県行田市本丸17−23
アクセス:JR行田駅からバスで23分

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