家康を辿る城旅「緒川城」!生母於大の方出生の城、水野家ゆかりの史跡も

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「緒川城」!生母於大の方出生の城、水野家ゆかりの史跡も…です。

(左:緒川城址、右:乾坤院山門)

■家康を辿る物語

家康の生母、於大の方(おだいのかた)は、尾張国知多郡を治める豪族・水野忠政の娘でした。
実名は、「大」または「太」「たい」とされます。

於大は14歳のときに、隣国の松平氏との関係強化のために、岡崎城主・松平広忠のもとに嫁がされます。
嫁いだ翌年には、広忠と於大の間に待望の男児が誕生します。その子が生まれたのは、寅の年、寅の日、寅の刻…。

その子が生まれると、於大が出産祈願をした鳳来寺から、薬師如来を護る十二神将像のうち寅童子と呼ばれる真達羅大将像のみ忽然と消えたといいます。
松平家の嫡子は、真達羅大将の化身、武神の生まれ変わりだ…。広忠はじめ松平一党は歓喜します。

この赤子は、衰退の憂き目にある松平家に生まれた希望の星でした。
「竹千代」と名付けられたこの子こそ、後に徳川家康となる運命の男児でした。

■緒川城

家康を辿る城旅…。今日は、家康の生母・於大の方の生誕の地を訪れましょう。
それが、尾張国知多、現在の愛知県東浦町にある「緒川城」(おがわじょう)です。「小川城」とも呼ばれています。

同地は、於大の父・水野忠政が本拠としたところ。忠政の曽祖父・貞守が文明年間(1469-1487年)に築城したと考えられます。
水野氏はここ緒川城を中心として知多郡北部を支配し、さらに三河刈谷まで勢力を伸ばしました。

於大は享禄元年(1528年)、ここ緒川城で生まれたとされます。
同地を訪れると、於大の出生地であることを刻む石碑が建っていました。「伝通院於大出生地」と書かれています。

ただ、同地は宅地化が進んでいて、残っている遺構は多くありません。
わずかに残るのは、この石碑の近くにある小高い丘陵…。これは櫓跡でしょうか。立派な土塁も残っています。

同地の案内板には、古絵図から導かれた緒川城の位置推定図が記されています。
それによると、東西83m・南北95mほどの方形状で、大小の曲輪があったようです。

於大は、同地を治める武将・水野氏の姫君として、ここで生まれ幼少期を過ごしました。

■於大公園

その於大の出生地にちなんで、ここ緒川の地には「於大公園」が整備されています。
子供たちをはじめ多くの人々が憩う場所になっています。毎年「於大まつり」も行われているのだとか。

この於大公園の一角に、「緒川城主三代の墓所」があります。
緒川城主初代の水野貞守(中央)、2代賢正(向かって左)、3代清忠(向かって右)の墓です。
さらに、その右に2基の墓塔があり、それは4代忠政の兄・成政とその子成清のものとされます。

■乾坤院

この於大公園に隣接してあるのが、水野家の菩提寺「乾坤院」(けんこんいん)です。
山号は「宇宙山」。初代貞守によって文明7年(1475年)に建立されました。

なんとも美しく荘厳な建物が建っています。庭園も見事で心癒されました…。
実はこの乾坤院、2016年の火災で本堂や座禅堂などが全焼しましたが、地域住民らの寄付などにより2019年に再建されました。

この乾坤院境内の北西に、水野忠政ら水野家四代の墓所があります。
他の墓塔より大きく、一段上の場所にあるのが、水野家中興の祖・忠政のもの。於大の父、そして家康の外祖父にあたる人物ですね。

その近くにある3基の墓は、忠政の子で6代当主忠守(向かって右)、その子忠元(中央)、その子忠善(向かって左)のものです。
水野家は、家康の生母・於大の生家として、江戸時代には譜代大名の一つとして、徳川将軍家から重く用いられました。

■基本情報

【緒川城址】
所在地:愛知県知多郡東浦町緒川古城
アクセス:JR緒川駅から徒歩で10分
営業時間:24時間営業

【乾坤院】
所在地:愛知県知多郡東浦町緒川沙弥田
アクセス:JR緒川駅から徒歩で15分
営業時間:24時間営業

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