こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、謎多き「松平信康事件」!家康は信長の命で妻子を殺した?岡崎ゆかりの史跡へ…です。
(左:松平信康首塚、右:築山殿首塚)
■松平信康事件
長篠の戦いで武田軍を一蹴…。戦国大名として確固たる地位を獲得した徳川家康。
しかし、その足元で思わぬトラブルが起きていました。それは後に「松平信康事件」と呼ばれるものです。
家康の嫡男、松平信康。その妻・徳姫は、姑の築山殿(家康正室)との関係も悪く、信康との夫婦仲は冷え切っていました。
信康自身にも日頃から乱暴な振る舞いが多く、徳姫は父の織田信長に12か条に及ぶ書状を送りました。なかには、築山殿が武田氏に内通していると訴えるものもありました。
不信感を持った信長は、家康家臣の酒井忠次と大久保忠世を呼んで問いただすと、いずれも書状の内容を認めました。
これを受けて信長は家康に、信康と築山殿の殺害を命じました。信長に逆らえない家康は、まず築山殿を殺害、さらに信康を二俣城に幽閉すると、後に切腹を命じました。
…というのが、「松平信康事件」の通説ですが、近年の研究では異なる見解も出ています。
その説によると、信長は2人の殺害を指示していない…。家康は、自らの判断で彼らを処罰したのだといいます。
その背景にあったのは、家康派と信康派の争い…。両者には対武田政策をめぐる意見の相違と対立があったといわれます。
片や織田家と連携して武田方と徹底的に対抗しようという家康派、片や武田家との敵対関係を見直して融和路線を進もうという信康派。
ややもすると徳川家を分裂崩壊しかねない争いに、家康が厳しい処断を下した…。
果たして真相はいかに?のちに神君と呼ばれる家康に影を落とす"黒歴史"。真相は闇のなかです。
■岡崎ゆかりの史跡
謎の多い「松平信康事件」…。
今日は、その事件で命を追われた松平信康と築山殿ゆかりの史跡をめぐります。
向かったのは愛知岡崎。この時期、信康は岡崎、家康は浜松と、父子離れて過ごしていました。築山殿も岡崎に残っています。
領地拡大によりやむを得なかったとはいえ、こうして離れて過ごしたことが、両者に修復しがたい亀裂を生じさせたのかもしれません。
はじめに足を運んだのは、信康ゆかりの「若宮八幡宮」です。
信康の死後、岡崎城内では怪異現象が度重なったため、信康の慰霊のために創建されたとされます。
(若宮八幡宮)
本堂横には、信康の首塚があります。信康の首は、信長の首実検後に岡崎に返され、当地に埋められました。
ひっそりとたたずむ五輪塔は、無念の思いで自刃した信康を鎮魂しているのでしょうか…。右側の石碑には「岡崎三郎信康公御首塚」と刻まれています。
(松平信康首塚)
続いて、築山殿の首塚のある「八柱神社」へ。
築山御前の首も、信康と同じように信長の首実検後に岡崎に返され、はじめは祐傳寺に埋葬されましたが、後に欠村石ヶ崎に移されました。
(八柱神社)
それが、現在八柱神社にある築山御前首塚です。
木々に間にひっそりと建つ五輪塔。後にもろもろ悪評を背負った築山殿ですが、柵に徳川家の家紋「三つ葉葵」が彫られているのを見てちょっと安心しました。
(築山殿首塚)
■基本情報
【若宮八幡宮(松平信康首塚)】
住所:愛知県岡崎市朝日町字森畔12
アクセス:名鉄「東岡崎駅」よりバス「岡崎げんき館前」下車徒歩10分
【八柱神社(築山殿首塚)】
住所:愛知県岡崎市欠町石ケ崎52ー1
アクセス:名鉄「東岡崎駅」よりバス「西欠町」下車徒歩5分