こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、日本最古の築港遺跡「和賀江島」!北条泰時が築いた源実朝の夢を受け継ぐ港跡です。
■海運で繁栄する鎌倉
源実朝の渡宋計画は失敗に終わりました。
建保5年(1217)巨大な唐船が完成しますが、由比ガ浜から海に曳かれた船は遠浅の浜に浮かびませんでした。
渡宋計画の目的は、宋から仏舎利を取り寄せようとしたとも、鎌倉に日宋貿易の拠点を築こうとしたとも言われています。
実朝自身が日本脱出を意図したという説もありますが、いずれにせよ実朝は、自身が描いた「海運で繁栄する鎌倉」を観ることはできませんでした。
それから15年後、実朝が頓挫した大陸との交易を実現した人物がいます。
その人物とは、ときの鎌倉幕府3代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)です。
北条泰時は、2代執権・北条義時の子。義時の跡を継いで執権となると、武家初の法典「御成敗式目」を制定するなど数々の治績を残し、日本史上屈指の名宰相とされる人物です。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の坂口健太郎さんが演じていますね。
その名宰相・泰時の功績の一つとして挙げられているのが、鎌倉に築いた人工の港です。
貞永元年(1232)泰時は、相模湾東岸に港湾施設を建造する計画を強く後援。家臣の平盛綱らを派遣して工事を推進すると、同年8月に竣工させました。
■和賀江島
その人工の港湾施設が、「和賀江島」(わかえじま/わかえのしま)です。
現存する築港遺跡としては日本最古のもの。現在の鎌倉市と逗子市の境界にその跡があります。
さすがに築港から約800年の時を経て、遺跡はわずかに残るばかり…。
満潮時にはほぼ全域が海面下に隠れてしまいますが、それでも干潮時には、岬の突端から西方に200mにわたって巨石の石積みを見ることができます。
かつては、北側に数本の石柱があり、南風を避ける船を係留していたそうです。
今でも残る石柱が1本建っているのが見えます。当時はここに、大陸から来航した船が繋がれていたのでしょうか…。
この「和賀江島」建造について、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証も務める歴史学者・坂井孝一さんが、著書「源氏将軍断絶」のなかに興味深い洞察を載せています。
なぜ泰時は、鎌倉中心部から離れた浜の東端に人口島の港を築かせたのか。交易の拠点とするなら、市街部に近い由比ガ浜(由比浦)のほうが適しているのではないか…。
由比浦が巨大な船の出入に適さない地形だと知っていたからと考えるのが自然であろう。
(「源氏将軍断絶」坂井孝一著より)
泰時は、遠浅の由比ガ浜が巨船の停泊に適さないことも、実朝の広大な計画も知っていたのではないか…。
史書「吾妻鏡」にも、「舟船の着岸の煩ひ」をなくすために由比ガ浜東端に人工の港を築きたいという申請を、泰時が「御歓喜」して「合力」したと記されています。
無論、泰時が船舶工学の知識を持っていたわけではない。
(「源氏将軍断絶」坂井孝一著より)
それ以前の経験、すなわち由比浦における唐船の進水失敗を目撃した、その経験に学んでいたと考えるのが最も説得力がある。
以後、鎌倉に大陸から唐船が来航するようになったと、史料などから推察されます。
海運の拠点を得た幕府は直接大陸と交易を行うことが可能となり、泰時は「海運で繁栄する鎌倉」を実現しました。
■実朝の夢を受け継いだ泰時
実朝の挫折から15年の時を経て、泰時がその計画を実現する…。
両者の関係がどうであったか、今となっては真相は分かりませんが、この事実に両者の強い絆を感じるのは少し情緒的すぎるでしょうか…。
ただ、実朝のこの後の悲劇を考えると、泰時が実朝の果たせなかった夢を受け継いで和賀江島を建造したのだと、せめて思いたい。
歴史の「if」が許されるなら、実朝の治世下で「和賀江島」が建造できていたら、実朝の描く「海運で繁栄する鎌倉」がいち早く実現したことでしょう…。
その意味では、実朝は15年先の泰時の時代を見通す先見性があったとも評価することができます。
坂井さんは続けます。「ただ、急ぎ過ぎた。どんな思惑を抱いているかわからない陳和卿に任せ過ぎたのである」。
結果として、由比の浜に巨体をさらして朽ちていく唐船は、将軍失政の象徴となり、さらなる試練を実朝に与えたのであった。
(「源氏将軍断絶」坂井孝一著より)
そして試練はやって来ます。実朝の渡宋計画の失敗は、積もり積もって、雪の降る日の惨劇につながっていくのです。
それは、次回の当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら!」で語ることにしましょう…。
■基本情報
名称:和賀江島
所在地:神奈川県鎌倉市材木座6丁目
アクセス:JR鎌倉駅東口から京急バス逗子駅行き(約10分)「飯島」下車 徒歩2分