小田原合戦「石垣山一夜城」!一夜にして出来た?関東初の総石垣の城

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、小田原合戦「石垣山一夜城」!一夜にして出来た?関東初の総石垣の城です。

■家康を辿る物語

豊臣秀吉は大軍を率いて小田原に進軍、北条氏の籠る小田原城を包囲しました。
そのとき秀吉は、小田原城を見下ろす笠懸山(石垣山)を占拠。ここに城を築き始めます。

この城が、関東で最初に造られた総石垣の城、「石垣山城」です。秀吉は密かに築城を進め、完成後周囲の林を伐採しました。
そのため、北条方から見るとまるで一夜にして城が出来たように見えたことから、「石垣山一夜城」とも呼ばれています。

実際にはのべ4万人が動員され、天正18年(1590)4月から6月まで約80日間が費やされました。
秀吉はこの城に淀殿ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。

この突如として小田原城の前に現れた石垣山城は、北条方の士気を大幅に低下させました。
支城の落城や頼みにしていた伊達政宗の降伏、味方の内応が続いていた北条方は、これにより完全に意気消沈しました。

■石垣山一夜城

北条軍を意気消沈させた総石垣の城、石垣山城
まるで一夜にして城が出来たように見えたため、石垣山一夜城とも呼ばれます。
その城跡は現在、石垣山一夜城歴史公園として一般開放されています。

この辺りは、もとは笠懸山と呼ばれていましたが、秀吉が総石垣の城を築いたことから石垣山と呼ばれるようになりました。
当地を訪れると、まさにその名の通り、石垣が出迎えてくれます。こちらは南曲輪の石垣です。

石垣の城は、戦国期になり西日本で造られるようになりますが、東日本では一般的ではありませんでした。
秀吉は、西国から石工集団「穴太衆」(あのうしゅう)を呼んで石垣を築いたと言われます。当時の技術の粋を集めた築城でした。度重なる地震にも耐え、壮観な石垣が今も残っています。

石垣のオーラを浴びながら、山道を登っていくと、広大な芝生広場に到着します。
こちらは二の丸跡。馬屋曲輪とも呼ばれています。本丸と並んで最も広い曲輪です。その一画には、戦国の城跡であることを示す櫓台跡もありました。

二の丸跡を過ぎて北東部に進むと、眼下に野趣あふれる石垣で囲まれた曲輪がありました。
もともと沢のようになっていた地形を利用して、北と東側を石垣の壁で囲むように造られた「井戸曲輪」です。
淀殿が化粧に使ったという伝承から、「淀殿化粧井戸」とも呼ばれています。淀殿、ここまで連れてこられて文句言わなかったのかしら…。

石垣山の山頂部分に、本丸跡があります。こちらは本城曲輪とも呼ばれています。
その一番高いところに、天守台跡もあります。ただ、実際に天守があったかどうかは定かではありません…。標高261.5m、石垣山城での最高地点です。

物見台からは、小田原の街と相模湾が一望できます。遠くに小田原城の姿も…。
小田原城の北条方にしてみれば、ここに突如、総石垣の城が現れたときは肝を冷やしたことでしょう。

本丸跡の西側に、西曲輪がありました。ここも広い…。
かつて豊臣秀吉はここで淀殿や千利休、お気に入りの大名らと茶会を楽しんだそうです。余裕しゃくしゃくですね…。

さらに南曲輪跡。相模湾が一望できます。
小田原征伐には、長宗我部元親や加藤嘉明、九鬼嘉隆らの水軍も参戦していました。ここから、その水軍の船が行き交う姿が見えていたのでしょうか…。


石垣山一夜城。圧巻の総石垣の山城です。
これだけの規模の石垣城を、一夜ではないにしろ、80日で築城したというのは驚きです。

当時の秀吉の権威と財力がいかほどのものだったかが推し量れます。北条方が士気を消失したのは仕方ないことでしょう…。
秀吉はこの石垣山城によって、天下人としての地位をさらに盤石なものこととなるのです。この石垣山一夜城は、秀吉の野望を成し遂げた天下の一夜城と言えるかもしれません。

ありがとう、石垣山城! ありがとう、石垣山一夜城!

■基本情報

名称:石垣山城(石垣山一夜城)
所在地:神奈川県小田原市早川1383-11
アクセス:JR小田原駅から観光回遊バス「うめまる号」で20分(土日祝運行)、JR早川駅から徒歩で40分

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