こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、城ぶら「神指城」!関ヶ原へと繋がる幻の巨城跡…景勝、家康、それぞれの思惑は?です。
■会津征伐
豊臣秀吉亡き後、政権運営の中枢を担ったのは五大老の一人、徳川家康でした。
政敵・石田三成を佐和山城に追いやり、さらに前田利長や浅野長政ら旧政権の重臣たちを屈服させると、その権力基盤を確固たるものとしていきます。
さらにその矛先は五大老の一人、会津を治める上杉景勝に向けられます。
家康は、景勝が進めていた新城(神指城)の築城や支城の改修は反逆行為であるとして詰問、上洛するように命じます。
景勝はこれを拒否。それどころか、側近の直江兼続が挑発的な返答(直江状)を認めて送り、家康を激怒させました。
慶長5年(1600年)6月、会津征伐の陣触れが出されると、家康も自ら大坂城を出陣。会津に向けて出兵します。
会津征伐の先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられました。一方、伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられます。
家康による会津征伐…それは、やがて天下分け目の戦い、関ヶ原に繋がっていくのです。
■神指城跡
今日は、関ヶ原の戦いの呼び水となった会津の神指城(こうざしじょう)を訪れましょう。
上杉景勝により築城が進められましたが、家康の会津出兵により竣工には至らず、幻の城となりました。
未完の城ということで、現在当地を訪れても、明らかに城跡と分かる遺構は残っていません。
それでも水田や民家が広がる田園風景のなかに、こんもりと丘陵状の台地が浮かび上がります。
この辺りが神指城の本丸跡と考えられます。私有地のため立ち入りはできません。
ただ、近くから目をこらしただけでも土塁のような跡も見受けられ、ここに築城が進められたことは間違いないと思われます。
面積は本丸だけでも約5.6万㎡、二の丸を含む全域では約50万㎡もあり、景勝の本拠である若松城をはるかに凌ぐ壮大な規模の城でした。
この地が選ばれたのは、会津盆地の東南端に位置する若松城が狭隘だったのに対し、ここは盆地の中心で平坦、阿賀川も近く交通至便、新たな城下町を築きやすかったからと考えられます。
たしかに見る限りは、軍事目的の築城には見えませんが…。ただ、家康はこの新城築城が軍事目的であると難癖をつけました。
それに対し景勝は猛反発。側近の直江兼続が痛烈な書状、通称「直江状」を認めて返答しました。謀反心などない、武士として当然のこと、まずは讒言者を何とかしろ、などを煽るような文言で書き連ねました(真偽については諸説あり)。
伝えられているところによると、神指城の築城を指揮していたのがこの直江兼続。
兼続は築城に際し付近の住民を強制的に移住させ、北東の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」を起点に縄張り(設計)したそうです。
今も本丸跡の北東にその大ケヤキが残っています。見るからに年輪を重ねた巨木…神指城築城当時から残っていると考えられます。
果たして、この大ケヤキは当時の趨勢をどう眺めていたのでしょうか…。
やがて、この神指城の築城が、家康の会津出兵…そして関ヶ原の戦いに繋がっていくのです。
続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」で綴っていきたいと思います。
■基本情報
名称:神指城跡(高瀬の大ケヤキ)
住所:福島県会津若松市神指町高瀬16
アクセス:路線バス「神指黒川」下車、徒歩15分