こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「掛川城」!今川氏真、必死の籠城戦!要衝に建つ"東海の名城"です。
■家康を辿る物語
徳川家康は武田信玄と同盟を結び、共に今川領に侵攻しました。
このとき両者は、東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたと見られます。
信玄に本拠の駿府を攻められた今川氏真は、駿府城を捨てて掛川城に逃げ延びます。
この掛川城を攻めたのが、かつて今川氏の属将だった徳川家康でした。
永禄11年(1568年)、徳川の大軍が掛川城を包囲します。
しかし、城代の朝比奈泰朝がよく守ったため、城はなかなか落ちませんでした。
結局、籠城戦の末に翌永禄12年(1569年)、氏真の身の無事を条件に開城。
氏真と泰朝は、相模国の小田原城に退去しました。
■掛川城~四足門から本丸跡へ
静岡県掛川市にある東海の名城「掛川城」。日本100名城の一つです。
今川氏が築いた遠江支配の重要拠点。駿府を追われた今川氏真も掛川城を頼りました。
氏真は必死の抵抗を見せますが、勢いある家康に最後は屈して城を退去しました。
掛川城は、その後徳川の支配下となり、さらに家康の関東移封後は豊臣秀吉配下の山内一豊が入城します。
いまに残る掛川城の姿は、一豊時代のものが多く復元されています。
一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣をつくりました。
それでは、「東海の名城」掛川城をぶら歩きしましょう。
「四足門」を通って城内へ入ります。ここは、本丸に通じる重要な門でした。
その先には石垣の土台が残る本丸門。その上には、侵入者を監視するように威圧する「太鼓櫓」がそびえ立っています。その名の通り、城下に時を知らせるための大太鼓を納めていました。
本丸門を通ると、そこは「本丸跡」。往時は、藩主の住まいである本丸御殿がありました。
今は花広場になっています。そこから見上げると、天守閣が美しい威容を示していました。
■掛川城~天守閣
さっそく石段をのぼって「天守閣」へ登城します。
何度も折り曲げた狭い階段は、敵の侵入に備えたもの。少し急な石段の先に天守が見えました。
掛川城の天守閣は、外観3層、内部4層から成ります。
6間×5間(約12m×10m)の天守閣本体は決して大きいものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入り口に付櫓(つけやぐら)を設けたりして、外観を大きく複雑に見せています。
1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せた出現期の天守閣のなごりです。
白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は京都聚楽第の建物に、黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えられます。
しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊。幕末の混乱の中で取り壊されました。
現在の天守閣は、掛川市民の熱意と努力によって、平成6年(1994)140年ぶりに木造で再建されたものです。日本初の木造復元天守閣!貴重ですね。
天守閣の中は見学できます(有料)。そこには、天守閣を築いた山内一豊の騎馬像や鎧兜などが展示されています。
山内一豊は、司馬遼太郎「功名が辻」でも描かれた人気のある武将。大河ドラマにもなりましたね。
最上階からは、市内を一望できます。さすがは東海道の要衝、掛川…。
一豊はじめ有力武将がここから、東西の動向に睨みを利かせていたのでしょう。
■掛川城~二の丸御殿
天守閣最上階から見えた瓦葺き平屋の建物が、「二の丸御殿(掛川城御殿)」です。
御殿は、城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されました。現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも4か所しかない貴重な建築物。国の重要文化財に指定されています。
御殿内も見学することができます(有料)。中に入ると、まずその広さに圧倒されます。
7棟からなる書院造で、部屋はそれぞれの用途に応じて約20部屋に分かれています。江戸時代は身分によって入口が異なっていました。格式の高さもうかがえますね。
さすがは「東海の名城」掛川城。圧巻、壮麗…。
日本初の木造復元天守閣、全国での稀少な現存する城郭御殿など、見どころがいっぱいです。
なお、家康が天下をとった後の掛川城は、徳川譜代の大名が代わる代わる城主を務めます。
やはり東海道の要衝として家康も後の将軍も、この城この地を重要視していたのでしょう。
家康の異父弟の松平定勝や子、太田道灌の子孫太田氏などの居城として栄えますが、明治4年(1871)廃城となりました。
■基本情報
名称:掛川城
所在地:静岡県掛川市掛川
アクセス:JR掛川駅から徒歩7分
営業時間:(2/1~10/31) 9:00~17:00 (11/1~1/31) 9:00~16:30
休業:12/30~1/1