こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
今日の夢中は、源頼朝の奥州合戦ゆかりの鎌倉史跡をめぐります。
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地!源氏一族の戦勝祈願の地「源氏山」、平泉文化を受け継ぐ幻の寺社「永福寺跡」、さらに頼朝ゆかりの「宇賀福神社」「佐助稲荷神社」をめぐります。
■城語り
文治5年(1189年)4月、奥州を治める藤原泰衡は、源頼朝の再三再四の要求に屈する形で、匿っていた源義経を急襲。自害に追い込みました。
泰衡は、義経の首を鎌倉に送り、頼朝に恭順の意を示します。
京の後白河法皇も、「これで国内は静かになる、もう戦さはおしまい」と、頼朝に伝えます。
しかし、頼朝は矛を収めませんでした。頼朝の目的は、奥州藤原氏の殲滅にありました。
これまで義経を匿っていた罪は反逆以上と、朝廷に泰衡追討の宣旨を要求すると、全国に動員令を発します。
そして同年7月、宣旨発出を渋る朝廷を無視し、出兵を決断。
家人の義経を許可なく討伐したことを罪として、自ら大軍を率いて奥州追討に向かいました。
鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州は内紛が起り、戦う前から戦力を減じます。
鎌倉方の大軍を前に奥州軍は敗走を重ねます。泰衡も平泉から逃亡しましたが、比内郡贄柵で郎従に殺されました…。
ここに、東北の地に栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡。
頼朝はこの戦で、かつて敵方(平家や源義仲、義経など)に与していた者らも動員。その覇権を示し、頼朝を頂点とした武士政権を確立しました。
■源氏山公園
その源頼朝ゆかりの史跡が鎌倉にあります。
鎌倉駅から徒歩20分のところにある「源氏山公園」です。
「源氏山」の名は、麓に源氏が屋敷を構えていたことに由来する伝えられています。
源義家が後三年の役で奥羽に向かう際、山頂に源氏の白旗を立てて戦勝祈願したという伝承があります。源氏と奥州には、頼朝の100年以上も前から、浅からぬ因縁があったのですね…。
頼朝はこれに倣い、平家討伐あるいは奥州追討の際、源氏山の山頂で戦勝を祈願したと言います。
そこには、甲冑姿の勇ましい頼朝像が建っています。その高さ約2m…。頼朝の鎌倉入り800年を記念して造られました。
近くには、頼朝ゆかりの2つの社があるので、そちらも合わせて訪問するのがおススメです。
銭洗弁財天として知られる「宇賀福神社」と、夢で佐殿(頼朝)を助けたことが名前の由来の「佐助稲荷神社」です。
(銭洗弁財天宇賀福神社)
いずれも、頼朝の夢のお告げが発端になったとされます。
宇賀福神社は、「西北の隠れ里に湧く水を神仏に供えれば、国は平穏に治まる」というお告げ。佐助稲荷神社は、平氏追討の際に「直ちに挙兵せよ」というお告げがあったのだとか。
(佐助稲荷神社)
■永福寺
さらに足を伸ばして、頼朝ゆかりの史跡を訪れましょう。
鎌倉に奥州合戦ゆかりの寺院跡があります。それが、鎌倉市二階堂にある史跡「永福寺跡」(ようくふくじあと)です。
奥州合戦で平泉を訪れた頼朝が、当地の寺社仏閣に感銘を受けて建立したとされる寺院の跡です。
平泉の中尊寺二階大堂等を模して造られ、建久5年(1194年)に三堂が完成。幕府から手厚く保護されましたが、応永12年(1405年)に焼失し、以後は再建されませんでした。
山林に囲まれた東西約100m、南北約200mの平坦地が寺の中心域と考えられる「幻の寺」。
昭和58年(1983年)から行われた発掘調査で、二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂を中心とする壮大な伽藍や庭園の存在が確認されました。
伽藍全体の構成は、平泉の無量光院をモデルにしたと考えられます。
鎌倉歴史文化交流館で、CGで復元された荘厳な姿や出土品が展示されていました。その規模にも美麗さにも、鎌倉殿の威光をうかがい知ることができます。
悲願の奥州平定を終えた頼朝は、壮大な伽藍建築により東国の王者としての権威を示しました。
頼朝の幻の寺「永福寺」。建物は残っていませんが、周辺に残る「二階堂」の地名は、遠く鎌倉時代に建てられた永福寺の建物が由来となっています。
■基本情報
【源氏山公園】
所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目7−1
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩25分
営業時間:24時間営業
【永福寺跡】
所在地:神奈川県鎌倉市二階堂209
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩25分
営業時間:(4月~10月)9:00~17:00 (11月~3月)9:00~16:30