こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。
今日の夢中は、埼玉吉見に残る源範頼の館跡、息障寺「源範頼館城」です。
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地!息障寺「源範頼館跡」、横見神社「御所陣屋」、「岩殿山安楽寺」をめぐります。まさか義経に続き、範頼までも…?
■城語り
まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。
源範頼(みなもとのりより)は、源義朝の六男。
源頼朝の異母弟、源義経の異母兄に当たります。
兄頼朝が平家打倒の兵を挙げると、程なくして頼朝のもとに参じたとみられます。
寿永3年(1184)、頼朝の代官として源(木曽)義仲追討の大将軍となり、大軍を率いて上洛。弟義経とともに、宇治・瀬田の戦いで義仲を討ち取りました。
続いて、一ノ谷の戦いで平家軍を破ると、その後も中国・九州の平定を任され各地を歴戦。
そして文治元年(1185)、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追いやりました。
その後、頼朝は自身の言いつけを守らず自由に行動する義経を冷遇。頼朝と決別した義経は奥州に逃れ、そこで自害しました。
一方の範頼は従順な態度を貫き、頼朝から信任を得ました。義経の死後は、頼朝軍に従って奥州に出兵、奥州藤原氏を滅ぼしました。
建久4年(1193)、曽我兄弟による仇討ちで頼朝が討たれたという誤報が入ると、範頼は悲しむ政子に「後にはそれがしが控えておりまする」と声を掛けました。
この言葉が頼朝に謀反の疑いを招きます。範頼は頼朝への忠誠を訴えますが、頼朝は範頼を捕らえて、謀反人として伊豆に配流・幽閉しました。
■城ぶらり
源範頼の館跡と伝わる場所が、埼玉県吉見町にあります。
「伝源範頼館跡」。現在の息障院がある一帯がそれです。
源範頼の生涯は不明なところが多く諸説ありますが、当地の伝承によると、範頼は平治の乱後に岩殿山安楽寺(後述)に逃げて比企氏に庇護されたと言われます。
また、兄頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住み、館を中心とするこの地を「御所」と呼ぶようになったとも言われています。
たしかに「御所」という名前から推察すると、貴人がお住まいだったのでしょう。
その貴人・源範頼の館跡とされるのが、現在の息障院(吉見町大字御所地内)がある一帯です。
息障院は、天平年間(730年ごろ)に行基による開創とも、大同年間(806年ごろ)に坂上田村麻呂による開創とも伝えられている古刹です。
室町時代に、源範頼館跡と言われる当地に移転したと言われます。
当地には、源範頼館跡の石碑が建っているほか、館跡(城跡)を偲ぶ堀跡が遺されています。
その堀は、息障院の四方を囲んでいます。たしかに、寺社というよりは防衛拠点の様相です。
■もっと城ぶら
さらに、その近くに「御所陣屋」と呼ばれる場所があります。
源範頼館の北300mほど。いまは「横見神社」が建っているエリアです。
たしかに、土塁や堀と思しき遺構があります。
ここも源範頼館があったという伝承地の一つ。ただし、確たることは分かっていません。
さらに足を伸ばして、「岩殿山安楽寺」へ。
ここは、平治の乱で父義朝が平清盛に敗れた後、範頼が逃れてその幼少期に身を隠していたという場所です。山門の前に「蒲冠者 源範頼旧蹟」の石碑が建っています。
安楽寺と前述の息障院とは、かつて一つの大寺院を形成していました。
範頼は、三重塔などを建立したと言われますが、戦国期の戦乱によって消失。現在の建物は江戸時代に再建されたものです。
さて、伊豆に幽閉された範頼ですが、その最期については諸説あります。
伊豆から逃れて生き延びたとも、頼朝によって誅殺されたとも言われます。いずれにしても、この後、範頼が歴史の表舞台に現れることはありませんでした…。
■基本情報
【息障院(伝源範頼館跡)】
所在地:埼玉県比企郡吉見町御所146
アクセス:東武東上本線東松山駅からタクシーで約15分
【岩殿山安楽寺】
所在地:埼玉県比企郡吉見町御所374
アクセス:東武東上本線東松山駅からタクシーで約10分