秀吉を支えながら次代への布石を打つ!名護屋城「徳川家康陣跡」

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、秀吉を支えながら次代への布石を打つ!名護屋城「徳川家康陣跡」です。

■家康を辿る物語

豊臣秀吉による2度にわたる朝鮮出兵、「文禄・慶長の役」
最初の出兵「文禄の役」(1592~1593)では、秀吉は実に16万もの兵力を渡航させました。

序盤は戦力や装備に勝る日本軍が快進撃を続けます。わずか1か月で首都・漢城(ソウル)を落とすと、秀吉軍は現在の北朝鮮の最北部まで侵入、朝鮮全域を席巻しました。
しかしその後は、朝鮮の義勇兵が決起、明からの援軍も到着すると、補給難に陥った秀吉軍は撤退しました。

この間、秀吉と明の間で講和交渉が重ねられますが、秀吉側には偽の明使節が、明皇帝には偽の講和使節が送られます。
一連のことは、大坂城に明使節が来日した際に露見します。秀吉は自身の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒2回目の朝鮮出兵に踏み切りました。

戦況は泥沼化します…。秀吉軍の侵略は凄惨たるものとなり、一方で明・朝鮮側の抵抗も激しいものとなりました。
この2回目の出兵「慶長の役」(1597~1598)は、慶長3年(1598)に秀吉が死去するまで続きました。

■徳川家康陣跡

朝鮮出兵においては16万もの兵が送られましたが、その主力は、宇喜田秀家や小西行長、加藤清正ら九州や西国の大名でした。
当時、豊臣政権の重臣であった徳川家康は、朝鮮にわたり戦うことはありませんでした。

その理由としては様々なことが言われていますが、当時家康は関東に移封されたばかり…。
領土の安定に大変な労力を割いていたことが一因と言われます。朝鮮出兵について家臣から問われた家康が、「箱根(関東)を誰に守らせるのか」と言ったという逸話も残されています。

渡海することはありませんでしたが、家康は前線基地の名護屋城には赴いています
1万5千の兵を率いて当地に陣を置きました。その陣跡が遺構として残っています。それが「徳川家康陣跡」です。

秀吉が本陣を置いた名護屋城の周辺に置かれた約130もの諸大名の陣跡の一つ
名護屋城の北東、約1kmのほどにあります。といっても、当時を偲ぶ遺構は残っていません。

保育園の脇の小高い丘。そこに、ここが徳川家康の本陣であったことを示す石柱と案内板が置かれています。
台地の奥に忠霊塔が建っていますが、陣跡との関係は不明。おそらく別のものではないかと思います。

家康は当地で秀吉を輔佐しながら、明国使節団の接待役を務めたと言います。
また、陣内に数寄屋(茶室)を建てて茶会を開いた記録もあり、ここで諸大名と交友を深めたものと考えられます。

暴走する秀吉を支えながらも、次代に向けた基盤固めをしていたのかもしれませんね…。
やがて秀吉の死去を受けると、家康をはじめとする五大老は朝鮮在陣の諸大名に対し撤退を指示します。

このとき家康は秀吉の死を秘して、困難な撤退戦を完遂させたと伝わります。
そして迎える秀吉亡き後の日本。その行く末はいかに?家康は天下泰平のためにどうするのか…。

■基本情報

名称:徳川家康陣跡
住所:佐賀県唐津市鎮西町名護屋
アクセス:唐津駅からタクシーで30分

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