こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、信長の天下布武はじまる!天下を睨む「岐阜城」、廟所のある「崇福寺」へ…です。
■家康を辿る物語
永禄9年(1566年)、三河一国をほぼ手中に収めた家康は、松平姓を徳川に改姓します。
三河の地盤固め、家臣団の統制のために、自己の権威付けを図ったものと考えられます。同時に朝廷に働きかけ、従五位下三河守の叙任を受けています。
さらに、同盟相手の織田信長との連携も強固なものにしていきます。
永禄10年(1567年)5月、長男の竹千代(後の信康)と信長の娘・徳姫が結婚。ともに9歳でしたが、岡崎城で暮らさせます。
このとき信長は、宿敵・斎藤龍興を稲葉山城の戦いで下し、念願の美濃平定を成し遂げていました。
信長は本拠を当地に移すと、「井ノ口」だった地名を「岐阜」に改名。「稲葉山城」の名も「岐阜城」に改名しました。
同時期から、信長は「天下布武」の朱印を使用し始めます。狙うは天下…。
尾張の大うつけから天下の覇王へ。永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を奉戴して上洛を果たしたのでした。
■信長公居館跡
戦国の覇王、織田信長。その天下統一の拠点となった「岐阜城」を訪問しましょう。
岐阜駅を降りると、駅前広場に黄金の信長像が建っていました。
マントを羽織る姿は唯一無二。その誰をも寄せ付けない威容で、岐阜の地から天下取りを進めました。
(織田信長像/岐阜駅)
岐阜駅からバスで岐阜城に向かいます。バス停を下りると、金華山(旧称:稲葉山)の頂に小さく城が建っているのが見えました。
これが、織田信長ゆかりの「岐阜城」です。山頂まではロープウェイが走っています。
(麓から見る岐阜城)
山頂に向かう前に、麓の史跡に足を運びましょう。現在の岐阜公園の一角に「信長公居館跡」があります。
岐阜城の歴代城主は、金華山の西麓にあるここに居館を構えました。信長時代の館は発掘調査から、巨石を立て並べた入口や金箔瓦を使用した建物、巨大な岩盤を背景にした庭園などがあったことが分かっています。
(信長公居館跡)
■岐阜城
ロープウェイに乗って金華山の頂へ…。そこにそびえ立つのが岐阜城天守閣です。
現在の天守は、昭和31年に再建された鉄筋コンクリート造りの模擬天守。城内は史料展示室、楼上は展望台になっています。
(模擬天守)
岐阜城天守は標高329mの高さにあり、眼下に清流・長良川や岐阜の街並みを一望できます。
信長もここから天下を睥睨したのでしょうか…。「天下布武」の朱印を用いて天下統一の志をかかげ、楽市楽座などの斬新な政策により経済を振興しました。
(天守からの風景)
山上部には、戦国時代に造られた石垣や城主の権威を誇示する巨石列の巨石が現存しています。
天守台近くの石垣は、その高い技術から信長の入城後に造られたと考えられます。
(巨石、石垣)
■崇福寺
さらに足を延ばして、岐阜にある織田家の菩提寺「崇福寺」に向かいましょう。
信長が岐阜に移った際、側室の吉乃の位牌を当寺に移したことで織田家の菩提所となりました。
(崇福寺)
後に本能寺の変で信長と息子の信忠が明智光秀に討たれると、信長の側室・お鍋の方がその遺品を送り寺内に埋め位牌を安置させました。それが「織田信長父子廟」です。
当地に建つ墓標には、右側に信長の法名が、左側に信忠の法名が刻まれています。さらに東側には信長・信忠の位牌を安置した位牌堂が建っています。
(織田信長父子廟)
本堂には「血天井」があります。これは、信長の孫・秀信が関ヶ原の戦いで西軍に属し、東軍の攻撃を受け岐阜城が落城した際、戦死した将兵の菩提を弔うため城の床板を天井に張ったものです。
今でも血痕が付着しているのが見られます。本堂には他にも信長ゆかりの史料が展示してありました。
(左:血天井、右:織田信長肖像画)
尾張の大うつけから天下の覇王へ…。
「天下布武」をかかげて天下取りに乗り出した信長。その歩みは急速かつ激烈でした。
天下統一目前、時代はその急激な変化を拒むように、信長に思わぬ終焉をもたらすことになります。
そのとき、信長と強い同盟関係にあった家康は…?それはまた後の「夢中図書館 いざ城ぶら」で綴ることにしましょう。
■基本情報
【岐阜城】
住所:岐阜県岐阜市金華山 天守閣18番地
アクセス:岐阜駅からバス乗車、「岐阜公園歴史博物館前」下車 ロープウェイ乗り場へ
営業時間:9:30~17:30(10月17日~3月15日までは16:30まで)
【崇福寺】
住所:岐阜県岐阜市長良福光2403−1
アクセス:岐阜駅からバス乗車、「長良川国際会議場北口」下車 徒歩3分
営業時間:(3月〜10月)9:00〜17:00 (11月〜2月)9:00〜16:30