家康を辿る城旅「上ノ郷城」!要害堅固の城に挑む家康、甲賀忍者を用いた攻城戦

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「上ノ郷城」!要害堅固の城に挑む家康、甲賀忍者を用いた攻城戦です。

■家康を辿る物語

今川家から独立し、三河統一をめざす松平元康(後の家康)。
周辺の諸城が松平家に帰属するなかで、頑なに抵抗した城がありました。

それが「上ノ郷城」。城主の鵜殿長照は今川一門の重臣、元康の軍門に下りませんでした。
永禄5年(1562年)、松平勢は元康自ら軍勢を率いて上ノ郷城を攻撃します。

しかし幾度攻撃を仕掛けても、堅城で知られる上ノ郷城は落ちません。
そこで元康は、甲賀流忍者(甲賀衆)を用いて城内に火を放つと、その混乱に乗じて城を攻め落としました。

この戦により長照は討死。甲賀衆は長照の二子・氏長と氏次を捕縛しました。
元康は二人の身柄と引き換えに、今川家に留められていた妻子の返還を要求。今川氏真は鵜殿兄弟を見捨てることはできず、人質交換が成立しました。

■上ノ郷城

家康を辿る城旅…。今日は、家康の三河統一に立ちはだかった城「上ノ郷城」を訪れます。
上ノ郷城は、現在の愛知県蒲郡市にありました。「城山」という地名が当地に残っています。

現地にある案内板に従って歩みを進めます。しばらくすると、目の前に土塁跡が見えてきました。
これは典型的な中世の城…当時の面影を残してますね。そそり立つのは「上郷城址」と書かれた石碑です。

(土塁跡)

ところどころに郭跡と思しき台地も広がります。
近年の発掘調査では、東郭平坦部の地下からV字型の堀(深さ約2.5m)が検出され、高い防御施設を備えていたことが確認されています。

(郭跡)

さらに歩みを進めて、丘陵部の頂上へ…。「上ノ郷城跡」の看板が建っています。
ここが城の「主郭跡」です。鵜殿長照ら城主一族は、松平軍に攻められたとき、ここに詰めていたものと考えられます。

(主郭跡へ)

こちらも近年発掘調査が行われ、発見された柱穴の状況から、7~8棟程度の堀立柱建物があったと考えられています。
他にも、火縄銃の弾丸や金銅製金具、数珠玉、砥石、甕、小皿などが出土したのだとか。鵜殿氏が使用したのでしょうか…。

(主郭跡)

これは、自然の地形をたくみに利用した堅城です。土塁やいくつもの郭が敵兵を防いだことでしょう。
さらに当時は堀などもあって(一部現存)、家康ら松平軍も攻めあぐねたものと思われます。

(上ノ郷城跡遠景)

■鵜殿長照の墓

この要害堅固の城を落とすために、家康は忍者(甲賀衆)を用いました。当時、忍者は武士たちから蔑視され軽んじられていたといいます。
その忍者を家康ら松平勢が主戦場で起用していたことに、新進気鋭の家康軍の強みがあるように思います。

その家康配下の甲賀衆によって討ち取られたとされる鵜殿長照ですが、その墓が城の西400mほどのところにあります。
今川家重臣の墓としては少し寂しい気がしますが…。後の天下人・家康に刃向った武将としてはやむを得ないのでしょう。

(鵜殿長照墓碑)

なお、これまた甲賀衆の手によって生け捕りされた長照の子・氏長と氏次兄弟ですが、後に家康に仕えました。
氏長は、遠江二俣城の守将となり家康の主要な合戦で戦功を挙げます。氏次は、松平家忠に仕えると関ヶ原前哨戦の伏見城の戦いで主・家忠とともに戦死しています。

■基本情報

名称:上ノ郷城跡
住所:愛知県蒲郡市神ノ郷町
アクセス:蒲郡駅から徒歩30分または車

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