城ぶら「沼田城」!真田信幸・小松姫が守り抜いた戦国真田の城

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、真田信幸から真田氏が5代にわたって支配した、沼田城です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

沼田城は、1532年ごろに沼田顕泰によって、その原型となる城が築かれたと言われます。
戦国期に入ると、沼田の地は、上杉・武田(真田)・北条の有力大名の狭間にあって、その属城として幾多の変遷をたどります。

1590年に北条氏が滅亡すると、沼田は真田氏の領地になります。
当主・昌幸は、この要衝を治めるために嫡男の信幸を派遣します。信幸は初代城主として、城郭の整備を手掛けます。
慶長年間(1596~1614)には、五重の天守をはじめ各種櫓や門の建造が進み、近世城郭が出来上がったと考えられます。

なお、関ヶ原合戦(1600年)がぼっ発すると、親子は袂を分かちます
真田昌幸と次男幸村は西軍(豊臣方)へ、信幸は東軍(徳川方)に付きました。
この沼田城には、上田城に向かう昌幸・幸村が立ち寄ろうとしましたが、信幸の妻・小松姫はこれを拒否。追い返しました。

信幸はその後、信之と改名。徳川方に仕えると、引き続き沼田の地を治めます。
しかし、1681年に5代藩主・信利が改易になると、真田の沼田城は破却されました。
その後、本多・黒田・土岐氏と城主は変わりますが、城の本格的な復興はなされていません。

■城ぶらり

それでは、真田ゆかりの名城、沼田城をぶら歩きします。

沼田城跡は、いま沼田城址公園として整備されています。
そのシンボルとして公園を見下ろす「鐘楼」。2代藩主真田信吉(真田信之の長男)が鋳造して沼田に時を告げていました。そのレプリカです。

歴史ファンに人気の高い真田一族。ゲームの世界でも人気です。
園内ところどころにゲーム「戦国無双」に登場するキャラクターが設置されていました。
左から、真田幸村、真田信幸(信之)、真田昌幸です。

その真田氏の城の遺構が残っています。西櫓台の石垣・石段です。
石垣の全長は27.5m、高さは0.8~2m、石段の幅は2.4m。地中に埋もれていたものが発掘調査により発見され、出土した瓦などから真田氏時代のものと考えられています。

その櫓台の石垣上に大きく枝を張る桜の木が「沼田城御殿桜」
樹齢推定400余年、根は古塁の石垣をしっかり抱いています。今に残る沼田城の形見木ですね。

沼田城址の北西端、名胡桃城方面を見晴す場所に、血なまぐさい遺構があります。
「平八石」、別名「首さらし石」。沼田城奪還のために兵を挙げた沼田平八郎(顕泰の子)が謀られて殺害され、その首がさらされたと言われる石です。
ちなみに、この平八郎謀殺の糸を引いたのが真田昌幸。ほんと謀りごとがうまいんだよな、このひと…。

公園の中心部、本丸跡には「大手門沓石」を見ることができます。
真田時代には五層の天守があったとされています。関東における五層の天守は、江戸城以外では沼田城だけ。破却されたのが勿体なくてしょうがありません。
その天守があったとされる場所は、利根英霊殿の東側と考えられます。

この天守のあった本丸と二の丸(現在は野球場)の間に設けられている「堀跡」
こちらも発掘調査が行われ、堀の中に多くの瓦や石垣の一部が出土しました。城が破却された際に埋め立てられた遺構がまだ埋没しているものと考えられています。

その天守跡の前には、真田信幸と小松姫の像が置かれています。
戦国期と江戸期を生きた名君・信幸と、彼を支えた小松姫。その人生は波乱万丈でしたが、特にこの沼田の地を2人で死守したことは、さらに絆を深めたのではないでしょうか。

真田信幸から真田氏が5代にわたって治めた城、沼田城。
戦国に思いを馳せながら城ぶらするのもいいかもしれません。

ありがとう、沼田城! ありがとう、真田信幸&小松姫!

■基本情報

名称:沼田城址
所在地:群馬県沼田市西倉内町594(沼田公園内)
アクセス:関越自動車道沼田ICから車で10分、JR上越線沼田駅から徒歩で18分

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