家康を辿る城旅「坂部城」!家康と於大、感動の再会…久松家ゆかりの洞雲院も

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「坂部城」!家康と於大、感動の再会…久松家ゆかりの洞雲院も…です。

■家康を辿る物語

永禄3年(1560年)5月、今川義元は2万5千の大軍を率いて尾張に進軍します。

その先鋒を任されたのが、家康(松平元康)が指揮を執る三河勢でした。
家康は、義元から大高城への兵糧入れを命じられます。

後に言う「桶狭間の戦い」の開戦前夜、家康はある場所を訪れました。
それが坂部城(阿久居城)。そこには、3歳のときに別れた生母・於大の方がいました。

その様子は、山岡荘八「徳川家康」に次のように記載されています。

「これはこれは、ようこそお越しなされました。久松佐渡が家内、於大にござりまする」
於大は波立つ感情をおさえて、入口に座った。

山岡荘八「徳川家康」(4)より

於大が再嫁した久松家は織田方…。感情を高ぶらせながらも、互いの立場を慮って挨拶したのです。
すると、家康(元康)は自ら立ってまっすぐ於大に近づくと、その手をとりました。「そこでは話が出来ぬ」。そして…

「縁あって…」と、元康はまっすぐ母をみつめたまま、
「生まれた時から一方ならぬご造作をかけました。元康、一日も忘れたことはござりませぬ」
そういうと、はじめてその眼にまるく露がふくれた。

山岡荘八「徳川家康」(4)より

■坂部城

名著「徳川家康」のなかでも屈指の名シーン…。
家の都合により3歳のときに生き別れた母子が、16年ぶりに再会する場面です。

この感動の再会が行われたのが、尾張国知多にある「坂部城」でした。
於大が再婚した久松俊勝が城主を務める城。於大はこの地から、家康に手紙や衣類を贈り続けていました。

母が子を思う気持ちは家康に十分なほど届いていました。
桶狭間の戦いの前、尾張に入った家康は寸暇を割いて、坂部城の於大のもとを訪れたと伝わります。

現在の愛知県阿久比町に「坂部城址」があります。
当時は阿久居(比)城とも呼ばれた城…。当地は現在、城山公園として整備されています。

(左:城山公園入口に立つ石碑、右:阿久比古城跡之碑)

坂道を上っていくと、小高い台地が広がりました。ここは本丸か二の丸か…。
縄張り図を見ると、隣接する阿久比町立図書館のある領域とともに一帯の城郭を形成していたものと考えられます。

その一角に、於大ゆかりの「綿畑」がありました。
於大は坂部城に嫁いでくると、里人に綿の栽培をすすめ、自らも綿づくりに励んだと伝わります。

(左:城山公園、右:綿畑)

■洞雲院

その坂部城の近くに、於大ゆかりの寺院があります。
それが、久松寺「洞雲院」(とううんいん)です。

寺伝によれば、創建は天暦2年(948年)。菅原道真の孫である菅原雅則の開基と言われる古刹。
その末裔にあたるのが久松氏…於大が再嫁した先です。なんと、久松氏は学問の神様の血筋なんですね。

(左:洞雲院山門、右:本堂)

そうした血筋からか、於大の夫・久松俊勝は寛容な人だったようで、家康と於大の対面を許しました。
さらに、自分と於大の間に誕生した3人の息子(康元、康俊、定勝)を家康に引き合わせました。

家康は後に、於大とともに俊勝を岡崎に呼んで、岡崎城の城代を任せます。
さらに、異父弟にあたるこの3人に松平姓(久松松平氏)を与えると、徳川家家臣としました。

境内には、於大の方をはじめ、俊勝ら久松家に関係の深い5人の墓があります。
なお、於大の遺骸は東京の伝通院に葬られましたので、こちらは遺髪を納めた分髪墓です。

(左:久松家の墓所、右:於大の墓(分髪墓))

■基本情報

名称:城山公園 (坂部城址)
住所:愛知県知多郡阿久比町卯坂栗之木谷38−12
アクセス:名鉄「坂部」駅から徒歩7分

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