決戦!関ヶ原「小早川秀秋陣跡」!戦いの帰趨を決する松尾山、秀秋離反す!

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、決戦!関ヶ原「小早川秀秋陣跡」!戦いの帰趨を決する松尾山、秀秋離反す!です。

■小早川秀秋離反

小早川秀秋。幼名は木下辰之助といい、豊臣秀吉の正室・北政所ねねの甥です。
幼い頃に秀吉の養子となり、後継者候補として養育されますが、秀吉に実子秀頼が生まれたことから、秀吉のもとをはなれて毛利一門の小早川家の後嗣となりました。

やがて筑前国主となった秀秋ですが、朝鮮出兵から帰国後に突如、秀吉から越前への減封転封を命じられます。
これにより秀秋は多くの家臣を解雇せざるをえませんでした。そんな失意の秀秋に手を差し伸べたのが徳川家康でした。

秀吉の死後、家康の働きかけにより筑前・筑後の復領が決定。所領高も59万石と大幅に増加しました。
このときの厚遇が、後の関ヶ原での決断に影響を及ぼしたのかもしれません。三成と家康が対立すると、秀秋は家康に対して事前に内応を約束しました。

そして迎えた関ヶ原の戦い。戦況を見わたせる松尾山に、秀秋は約1万5千の兵を率いて陣取ります。
戦いが始まってもしばらく様子見を続けていましたが、家康の催促もあってついに兵を動かします。

松尾山を駆け下りると、西軍の大谷吉継軍に攻めかかります。この秀秋の離反に連鎖するように、脇坂安治や朽木元綱ら西軍諸将も相次いで離反。
反転して大谷軍に襲いかかると、これを壊滅させました。これに機に、戦局は一気に東軍有利に傾きました。

■松尾山・小早川秀秋陣跡

小早川秀秋、離反!松尾山を駆け下り、大谷吉継軍を急襲…。これにより、戦いは一気に東軍有利に動きました。
決戦!関ヶ原…。今日は、戦いの帰趨を握った松尾山・小早川秀秋陣跡を訪問しましょう。

松尾山は標高293m。関ヶ原の戦いの主戦場を見渡すことのできる絶好の位置にあります。
かつて当地を領した浅井氏が松尾山城を築いた要衝で、石田三成もその重要性に着目し、荒廃していた城跡を改修して戦いに備えていました。

一説には、西軍の総大将・毛利輝元を招き入れようと画策していたとも言われます。
しかし結局、輝元は出陣せず、合戦前日に小早川秀秋が約1万5千の兵を率いて当地に布陣しました。

山麓から標高293mの山頂までは約40分。当時の秀秋の思惑を想像しながら、山道を歩いていきましょう。
さすがは、単なる陣跡ではなく山城…。切り立つ断崖や堀切や土塁など、地形を生かした防御が施されているのが分かります。

これは辿り着くのにひと苦労…。息を切らしながら、ようやく山頂に到着しました。
山頂には、「小早川秀秋陣地」という白旗と、秀秋の家紋「違い鎌」の旗がたなびいています。

山頂付近には、土塁で囲まれた主郭や敵の侵入を防ぐ桝形虎口などの遺構を見ることができます。

さらに周囲には、馬出状の曲輪跡土橋などが残っています。これは、想像以上に本格的な山城だ…。

山頂からは、関ヶ原の戦場を一望できます。眼下で繰り広げられる一進一退の攻防に、秀秋の心は揺れ動いたのかもしれません。
しかし、ついに秀秋が動きます。彼が下した決断は、松尾山を駆け下りて大谷吉継軍を攻撃すること…。西軍を裏切り、家康率いる東軍に与することでした。

このとき、日和見を続ける秀秋に憤った家康が松尾山に向けて鉄砲を撃ったという説がありますが、今は真偽のほどは疑わしいとされています。
また、秀秋が三成を裏切った理由について、朝鮮出兵後の減封転封が三成の讒言によるものという説がありますが、こちらも真偽は不明。
ただ、朝鮮に派遣された武将が三成ら文治派を快く思っていなかったのは間違いなく、それが離反に繋がった可能性は否めません。

この秀秋の離反が、膠着状態であった関ヶ原の戦場を大きく動かします。
天下を分ける一大決戦・関ヶ原、その戦いの行方はいかに…?続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」にて綴ってまいります。

■基本情報

名称:小早川秀秋陣跡
住所:岐阜県不破郡関ケ原町山中
アクセス:関ケ原ICより南西へ車で10分(松尾山麓駐車場から頂上までは徒歩40分)

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