小田原合戦「玉縄城」!北条早雲が築いた難攻不落の城もついに降伏開城

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、小田原合戦「玉縄城」!北条早雲が築いた難攻不落の城もついに降伏開城…です。

■家康を辿る物語

小田原の西の護りとして、鉄壁の防備線を敷いたはずの山中城が突破された…。
しかも、豊臣軍の前にわずか数時間で落城したという事実は、北条氏に大きな衝撃を与えました。

このとき山中城を守備していた北条氏勝は、落城の責任をとり自害しようとしますが、家臣に制止され居城の玉縄城に戻ります。
この際、諸将が集まる小田原城を素通りして玉縄城に入ったため、北条氏政から疑念の目を向けられました。

玉縄城は徳川家康軍に包囲されましたが、氏勝は抵抗らしい抵抗をせずに降伏開城。
以降、氏勝は下総方面の豊臣軍の案内役を務めて、北条方諸城の無血開城に尽力しました。

■玉縄城

北条氏の重要拠点「玉縄城」(たまなわじょう)。その始まりは戦国時代初期…。
永正10年(1513)、後北条氏の始祖・北条早雲こと伊勢盛時によって築かれたとされています。

この城は東海道の要所に位置し、小田原の守りとして重要な拠点であったことから、城主は代々、氏時、為昌、綱成、氏繁、氏舜、氏勝と、北条氏の一族が務めました。
堅城として知られ、上杉謙信・武田信玄が相模に進出した際も攻略をあきらめたほどです。

玉縄城跡は現在、清泉女学院の建設や宅地化によって、多くの遺構が破却されています。
それでもいくつか、城のあった往時をしのぶ遺構が残っています。代表的なのはこちら、「七曲坂」です。

玉縄城の東側から本丸へと続く登城道で、その名の通り幾重にも曲がりくねった坂道です。
途中には、武者たちが詰める「武者だまり址」などもあり、上杉や武田の軍勢が落とせなったという堅守の備えが施されていることが分かります。

坂道の脇に切り立つ斜面には、人工的に削ったと思しき切岸が整備されています。
そのために、攻め手は狭い七曲坂を通らざるを得ず、そこに上から矢や鉄砲を浴びせたのでしょう。恐ろしい…。

七曲坂を登り切って標高55mのところに「太鼓櫓跡」があります。
ここは七曲坂を見下ろす絶好の台地。南に鎌倉、西に小田原を見通せます。そのため狼煙台としても使われようです。現在は、市民緑地として開放されています。

その太鼓櫓の南斜面下に広がるのは「焔硝蔵跡」(えんしょうぐらあと) 。
かつては城の武器弾薬倉庫があったとされる場所です。現在は中央の平場を除いてほとんどが竹林になっています。残念ながら今は立ち入ることができませんでした。

太鼓櫓跡からしばらく歩くと、玉縄城の「大手門址」。現在は清泉女学院の裏門になっています。
元は本丸に向って土塁の真ん中をまっすぐ道が伸びてたと言います。今は、テニスコート増設などで埋め戻さています…。
残念ながら立入禁止。遠くから、本丸跡と思しき丘陵が見えました。

そして、往時は空堀があったとされる宅地を通って西側へ…。こちらにも、七曲坂に引けを取らない急峻な坂道がありました。
「ふわん坂」と呼ばれている堀切跡です。坂道の両側にそそり立つ土塁は、いま通っても敵兵から狙われているような恐怖を感じました。

玉縄城西側にも、小田原合戦ゆかりの史跡があります。その一つ、小田原合戦のときに徳川家康が祈祷したという「久成寺」です。
参拝のあと裏手に足を運ぶと、土塁や武者だまりのような場所がありました。小田原合戦のとき徳川勢が詰めたのかしら…?

結局、小田原合戦のとき玉縄城の城主だった北条氏勝は、小田原の北条氏政に疑念を持たれたこともあって、城を包囲していた徳川家康軍に降ります
難攻不落の城もときの勢いには勝てず…内部から陥落したといってよいでしょう。

こうして、始祖・北条早雲ゆかりの城も失った小田原北条氏…。その命運は風前の灯火となりました。

■基本情報

名称:玉縄場跡
所在地:神奈川県鎌倉市城廻200
アクセス:(1)JR大船駅から徒歩20分 (2)JR大船駅からバス7分

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