城ぶら「大倉御所跡」頼朝から頼家、実朝へ…鎌倉殿の居館跡!13人の顔ぶれも

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、城ぶら「大倉御所跡」!頼朝から頼家、実朝へ…源氏3代将軍の居館跡です。「鎌倉殿の13人」の顔ぶれも!

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

治承4年(1180)8月、平家打倒の兵を挙げた源頼朝
石橋山の戦いに敗れ安房に逃れたものの、そこで再挙を図り鎌倉を目指します。

鎌倉は、源氏の祖先ゆかりの地。さらに、四方を山と海に囲まれた天然の要害。
頼朝の目指す武家政権の根拠地には絶好のロケーションでした。

鎌倉に向かう頼朝のもとに、東国の武士たちが次々と集結。
治承4年(1180)10月、大軍となった頼朝はついに鎌倉に入りました。

念願の鎌倉入りを果たした頼朝は、先祖頼義の館があった大倉郷に御所を構えます。
やがてこの御所で政務を行ったため、ここは「大倉幕府」と呼ばれるようになりました。

鎌倉に武家政権の礎を築いた頼朝は、ここから破竹の勢いで勢力を伸ばします。
宿敵平家を滅亡に追い込み、源氏一族の相克も制して、建久3年(1192年)征夷大将軍に任じられました。

■城ぶらり

それでは、武家政権はじまりの地、鎌倉「大倉御所」跡をぶら歩きしましょう。

JR鎌倉駅を降りて、歩いて北東方向へ。
現在の鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯に、鎌倉殿の邸宅「大倉御所」がありました。

大倉御所の敷地は、東西約270m、南北約200mの方形であったと考えられます。
すでに市街地化しており明確な遺構は残っていませんが、現在の清泉小学校の側に「大倉幕府跡」碑が建っています。

頼朝は御所内で公的な政務も執り行ったため、ここは「大倉幕府」とも呼ばれます。
御所の東端には「東御門旧跡」碑が、西端には「西御門旧跡」碑が建っています。

治承4年(1180)12月、頼朝は新造された大倉御所に入りました。
それは御家人311人を従えた壮大なものであり、この年を鎌倉幕府創設の年とする説があるほどの歴史的な転換点です。

そうです、新しい武家政権が東国に生まれたのです。「鎌倉殿」はじまりの地、鎌倉大倉…
以後、頼朝、頼家、実朝と源氏3代にわたる鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)がここを御所とし、この大倉幕府において政務を執りました。

■鎌倉殿の13人

とはいえ、実質的に鎌倉殿が政治を取り仕切ったのは、頼朝だけと言われます。
頼朝の死後、長男頼家が18才の若さで鎌倉殿の地位につくと、「鎌倉殿の13人」と呼ばれる有力御家人13人による合議制が敷かれることとなります。

表面上は、経験の浅い頼家を支えるために設けられた仕組みですが、実態は、失政を重ねる頼家を抑え込むためとも、頼朝派と頼家派の妥協の産物とも言われます。
それでは、「鎌倉殿の13人」に名を連ねた御家人たちの顔ぶれを見てみましょう。

北条時政(ほうじょうときまさ)

伊豆国北条を本拠とした在地豪族でしたが、娘政子が源頼朝と結婚したことにより運命が急転。
頼朝の後援者として御家人たちを統括。頼朝死後は初代執権の座に就きました。

北条義時(ほうじょうよしとき)

時政の次男。姉政子が源頼朝と結婚したため、図らずも頼朝の義弟となりました。
頼朝の挙兵前から付き随い、「家子専一」(親衛隊長)と称され頼朝から厚い信頼を得ました。

中原親能(なかはらちかよし)

下級貴族の家系ですが相模で養育され、その頃に頼朝と知り合ったとされます。
京で捕縛されかけ脱出、鎌倉で頼朝に勤仕。頼朝の代官として幕府と朝廷の仲介役を務めました。

大江広元(おおえひろもと)

親能の弟。はじめは朝廷に仕えていましたが、後に鎌倉に下って頼朝の側近となります。
官位は正四位で義時よりも上位、名目上は将軍に次ぐNo.2として重く用いられました。

三善康信(みよしやすのぶ)

もとは在京の公家。頼朝の乳母の妹の子で、流人時代の頼朝に月に3度京都の情勢を知らせました。
頼朝から鎌倉に呼ばれ政務の補佐を命じられ伺候。問注所の執事(長官)として裁判実務を司りました。

二階堂行政(にかいどうゆきまさ)

鎌倉幕府の文官。頼朝の外祖父・藤原季範の妹を母に持ちます。
公文所(後の政所)の実質的な副官を務めるなど、実務に精通した官僚として腕を振るいました。

比企能員(ひきよしかず)

頼朝の乳母・比企尼の甥で養子。頼家の乳母父を任されるなど頼朝の信頼厚い人物でした。
さらに能員の娘は頼家の妻となり、長子・一幡を生みます。13人の中では北条氏に並ぶ強大な権勢を持っていました。

梶原景時(かじわらかげとき)

石橋山の戦いで頼朝を救ったという逸話の残る武将。源義経と対立した人物としても知られます。
頼朝の寵臣として権勢を振るいましたが、頼朝の死後、その不遜な言動に対する批判が顕在化していきました。

和田義盛(わだよしもり)

相模三浦氏の支族。早くから頼朝挙兵に呼応し、本家三浦氏と共に兵を挙げます。
その功績から初代の侍所に任命され、御家人の最前に立ちますが、思慮が浅く、後に北条義時と衝突します。

三浦義澄(みうらよしずみ)

相模三浦氏の当主。和田義盛の叔父。源氏累代の家人で、頼朝挙兵時にもいち早く合流しました。
源平合戦の功労者であり御家人の間でも信頼厚く、13人合議制には高齢(73才)ながら加わりました。

安達盛長(あだちもりなが)

頼朝の乳母・比企尼の娘婿で、その縁から流人時代の頼朝の家臣となりました。
頼朝挙兵では、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。頼朝の信頼厚く、頼朝は私用でしばしば盛長邸を訪れました。

八田知家(はったともいえ)

常陸の大豪族で守護。保元の乱で源義朝に従い功績を上げた武将で、頼朝に早くから従いました。
策士としても知られ、頼朝の異母弟・阿野全成を誅殺した人物としても知られています。

足立遠元(あだちとおもと)

武蔵国足立郡の大豪族。頼朝の父・義朝の家臣で、平治の乱などで功績を挙げました。
源平合戦でも功を挙げ、頼朝から最初に本領安堵されています。文武両道の人と伝わります。


…と13人の顔ぶれをざっと紹介しましたが、これが一筋縄でいきませんでした。
何しろ、頼朝派と頼家派がいるわけですから、程なくして13人を含む御家人同士の対立が表面化し、合議制は瓦解…。
新たな武家政権を開いた鎌倉大倉の地に、風雲急を告げる事態がやって来ることになるのです。

なお、源氏3代将軍が居館とした大倉御所ですが、実朝没年(1219年)の12月、火事により焼失してしまいます。
その後は、同じ鎌倉の地ですが、別の場所に御所が築かれました。宇都宮辻子御所若宮大路御所がそれです。いずれも大倉御所跡に近いところに碑があるので、合わせて巡るといいかもしれません。

■基本情報

名称:大倉御所跡碑(大倉幕府跡碑)
所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目6−26
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩15分

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