こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康三大危機の一つ「三方ヶ原の戦い」!家康、信玄に人生最大の大敗北を喫す…です。
■家康を辿る物語
元亀3年(1572年)、ついに軍を発した戦国最強の武田信玄軍。
総勢3万もの大軍が、家康の領する遠江・三河に侵攻してきました。
一方、家康が遠江で動員できたのは8,000ほど…。頼みの信長からの援軍も僅か3,000でした。
家康は、武田軍の狙いが、本城の浜松城にあると見て、籠城戦の準備を進めます。
ところが、二俣城を攻略して浜松城に向かっていたはずの武田軍が予想外の行動に出ます。
突然進路を変更すると、浜松城を無視するかのように、西進をはじめたのです。
侮られたと感じた家康は一部家臣の反対を押し切り、城を出て三方ヶ原台地へ出陣。
武田軍を背後から攻撃しようとします。しかし、信玄はこの動きを読んでいました…。
信玄は三方ヶ原に魚鱗の陣を敷き、万全の構えで家康軍を待ち構えていました。
家康は鶴翼の陣を敷いて対抗しましたが、わずか2時間あまりで完膚なきまでに叩きのめされ、浜松城へと敗走することとなりました。
■三方ヶ原古戦場
徳川家康と武田信玄が武力衝突した合戦「三方ヶ原の戦い」。
家康は、"戦国最強"武田軍に果敢に挑みますが、人生最大とも言える大敗北を喫しました。
自身も討死しかけた家康は、この戦いで味わった屈辱を生涯忘れることはなかったそうです。
そのことから「三方ヶ原の戦い」は、三河一向一揆や伊賀越えと並び、家康三大危機の一つに数えられています。
そんな歴史に残る三方ヶ原の戦いですが、実は主戦場は特定されていません。史料や史跡が残っていないためです。
それでも三方ヶ原台地のいずれかで両軍が相まみえたことは事実。現在はその台地の一角に、古戦場碑が建っています。
(三方ヶ原古戦場碑)
場所は三方原墓園の駐車場付近。付近は墓所のほか多目的広場などが広がります。
遺構は残っていませんが、淡黄色の土が敷かれた広場をみると、そこに合戦の模様が浮かんでくるよう…。
(三方原墓園多目的広場)
■祝田の坂、根洗松
背後を衝くつもりが、ここに万全の構えで武田軍が待っていたら驚いただろうな…。
家康の狙いは、西進する武田軍の虚をついて背後から襲う奇襲策。ある程度損害を与えたら引き上げるつもりだったと思われます。
その奇襲の場所は、三方ヶ原台地を下る祝田の坂。狭い坂道を下っているところを叩けば、いくら大軍でも打撃を与えられるだろう…家康はそう考えたのでしょう。
現在、その祝田の坂につながる入口に「祝田坂への旧道」碑が立てられています。
(祝田坂旧道口)
しかし、信玄は家康の動きを読んでいました。祝田の坂を下ると見せかけると反転、三方ヶ原に布陣して家康軍を待ち構えました。
その際、武田信玄が本陣を置いたのが「根洗松」の辺りといわれます。「祝田坂への旧道」碑の道を挟んだ向かい側。現在の松は二代目だそうです。
(根洗松)
信玄はまんまと家康をおびき出すことに成功。万全の構えで攻撃を仕掛けます。
一方、家康は眼前にいるはずのない大軍を見て動揺…。家康軍はわずか2時間ほどの戦いで瓦解、多数の死者を出して潰走しました。
こうして、三方ヶ原の戦いは、家康軍の惨敗となりました。
そして家康自身にも追撃の刃が襲いかかります。果たして家康の運命は?それはまた、次回の「夢中図書館 いざ城ぶら」で語ることにしましょう。
■基本情報
【三方ヶ原古戦場】
住所:静岡県浜松市北区根洗町国道257号線
アクセス:浜松市から車(国道257号線)
【祝田坂旧道口、根洗松】
住所:静岡県浜松市北区根洗町
アクセス:浜松市から車(国道257号線)