家康を辿る城旅「二俣城」!軍略自在の武田信玄、天然の要害を落とす秘策とは?

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「二俣城」!軍略自在の武田信玄、天然の要害を落とす秘策とは?です。

■家康を辿る物語

元亀3年(1572年)10月、一言坂の戦いで徳川軍を破った武田信玄
遠江支配の要所である「二俣城」(ふたまたじょう)に侵攻を開始します。

攻める武田軍の数は2万7千。一方、守る二俣城の城兵は1200ほど…。
しかし、二俣城は天竜川と二俣川を天然の堀とする堅城です。城を守る中根正照は、武田軍の降伏勧告を拒否し、徹底抗戦の構えを見せました。

武田軍は攻撃を開始しますが、攻め口が大手口に限られたため大軍の利を生かせません
すると信玄は、力攻めでは二俣城を落とすことは無理と判断。水を断つ作戦をとります。

二俣城には井戸が無く、天竜川沿いの断崖に井戸櫓を設けて、釣瓶で水を汲み上げていました。
そこに目を付けた信玄は、大量の筏を作り天竜川の上流から流し、井戸櫓の柱に激突させて破壊するという策略を実行します。

この奇策は見事に成功。二俣城の井戸櫓は大量の筏によって柱をへし折られ崩壊しました。
水を断たれた正照は信玄に降伏…開城して浜松城に退いたのでした。

■二俣城

戦国最強の武田信玄が牙をむく…。
今日は、武田軍が攻め寄せた「二俣城」(ふたまたじょう)を訪問します。

二俣城は、天竜川のほとり、遠江の平野部と山間部を結ぶ交通の要衝にありました。
現在は天竜奥三河国定公園に指定されているエリアの一部(浜松市天竜区)に、その遺構が残っています。

(二俣城入口)

天然の地形を利用した山城。山を階段状に削り取り、本丸や二の丸、北曲輪、南曲輪などが配置されています(連郭式山城)。
山道を登って南側から攻城します。南側には蔵屋敷や南曲輪、各所に土塁や堀切跡が残っています。

(蔵屋敷・南曲輪)

歩みを進めて二の丸へ。入口には立派な石垣、ここが大手門跡です。
ここに至る道筋は細い石段で桝形になっています。これは、武田の大軍をもってしても攻め落とすのは難しいでしょう…。

(二の丸・大手門)

■二俣城(続)

さらに歩みを進めて本丸へ。すると目の前に広大な曲輪がひろがりました。
これも削り取ったのでしょうか…。その一角に天守台の遺構が残っています。

(本丸)

これは、石垣ファンにはたまらない立派な野面積み。天守の隅石には算木積みが用いられています。
天守台にのぼると本丸を一望できます。この本丸を中心として、南に二の丸や南曲輪、北に北曲輪(現在は旭ヶ丘神社)。これらが連携して正面からくる敵に当たります。

(天守台、天守台から見た本丸)

何しろ背後は天竜川と断崖で隔てられているから安心…と、ここに目を付けたのが信玄です。
正面突破が難しいと見るや、城が天竜川から井戸櫓で水を汲み上げていることを発見。この井戸櫓を破壊して城内の水を断つという作戦に出たのです。

そのやり方がものすごい…。大量の筏を作らせて天竜川の上流から流すと、井戸櫓の柱に激突させ破壊しました。
近隣の清龍寺に、二俣城で建てられていたと云われる井戸櫓が再現されています。

(井戸櫓(清龍寺))

恐るべし信玄…。軍略の天才ですね。
その信玄が矛先を家康のいる浜松城に向けます。家康の運命はいかに?いよいよ三方ヶ原の戦いがはじまります。それはまた、次回のブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」で…。

■基本情報

名称:二俣城
住所:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣990
アクセス:二俣本町駅から徒歩約10分

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