"戦国最強"信玄来襲!危うし家康…本多忠勝決死の殿戦「一言坂古戦場」

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、"戦国最強"信玄来襲!危うし家康…本多忠勝決死の殿戦「一言坂古戦場」です。

■家康を辿る物語

元亀3年(1572年)、武田信玄が徳川領の遠江・三河への侵攻を開始します。

戦国最強と言われる武田軍は、兵を二手に分けて、遠江・三河へ同時に侵攻します。
これにより、ただでさえ兵力で劣る徳川軍は、戦力を分散せざるを得ませんでした。

遠江に向かった信玄率いる本隊は、遠江支配の要所である二俣城に向かいます。
二俣城を落とされることを避けたい家康は、本多忠勝らを偵察に先行させると、自らも兵を率いて出陣しました。

しかし信玄軍は、家康が全く予期せぬ速さで進軍していました。
図らずも偵察隊は武田軍の先発隊と遭遇。慌てて退却しますが、武田軍の追撃を受けることになりました。

急を聞いた家康は布陣していた見付からの撤退を決断。このとき、家康を逃がすために殿(しんがり)を務めたのが本多忠勝でした。
忠勝は、家康撤退の時間を稼ぐために見付の町に火を放つと、さらに一言坂で追ってきた武田軍と激突します(一言坂の戦い)。

忠勝は、獅子奮迅の活躍で武田軍の猛攻をしのぐと、家康を無事に浜松へと帰還させることに成功しました。
一言坂の戦いのあと、その武功を讃えた「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という歌がうたわれました。本多平八とは忠勝のことです。

■一言坂古戦場

徳川四天王のひとりに数えられる猛将、本多忠勝(ほんだただかつ)。
その名が大きく轟いたのが、「一言坂の戦い」(ひとことざかのたたかい)です。

武田軍の猛追を一言坂で喰いとめると、敵である武田軍に「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と言わしめました。
「本多平八」とは、忠勝のこと。「唐の頭」とは、家康軍が愛用していたヤクの毛をつけた兜のことです。

その一言坂古戦場は、現在の愛知県磐田市にあります。地名は今も「一言」(ひとこと)。
かつての東海道、現在の県道413号の道路わきに、「一言坂の戦跡」という碑が建っています。

今となっては、かつての合戦を偲ぶ遺構はなく、その詳細を知ることは難しいですが、当地で忠勝が武田軍と交戦したことは間違いないと考えられます。
家康はここから東海道筋を西に向かった浜松城に撤退中、それを追う武田軍が東から猛追してきたのでしょう。

案内板によると、この道は「池田近道」とも呼ばれ、多くの旅人に利用されていたとのこと。
その名のとおり、かつての見付宿から池田渡船場までの近道。ただ、この道は徒歩でしか通ることのできない細い一本道だったようです。

この「細い一本道」であったことが、忠勝軍を援けました。一本道の戦いでは、いくら大軍であっても最先端と最後尾しか戦えません。
兵数が少なくても互角に戦える…。もしかしたら、忠勝はあえてこの細い道に陣を張ることで、大軍に対して各個撃破の戦いを仕掛けたのかもしれません。

一方で、一言坂に陣を敷いた本多忠勝の退路を阻むために、信玄近習の小杉左近が先回りして坂の下で待ち伏せしたという説もあります。
これに対し、忠勝軍が決死の構えで敵中突破を敢行。この姿に感じ入った左近が道を空けるように指示。忠勝隊を見逃したといわれます。

一言坂の戦いの真相は分かりませんが、これにより本多忠勝の勇名が高まったのは事実。
一方で、信玄軍の強さも大いに知らしめられました。そしていよいよ、信玄軍と家康軍の戦いが始まるのです…。

■基本情報

名称:一言坂古戦場跡
住所:静岡県磐田市一言
アクセス:遠鉄バス「磐田西高」下車、北へ1,700メートル


ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事