城ぶら「大垣城」!石田三成が西軍の本営を構えた要塞城、幻の決戦地

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、城ぶら「大垣城」!石田三成が西軍の本営を構えた要塞城、幻の決戦地です。

■石田三成、大垣城へ

打倒・家康の兵を挙げた石田三成…。
家康との決戦を期して、東西の交通の要衝である大垣城に軍勢を進めます。

三成は、城主の伊藤盛正に城の明け渡しを迫ると、盛正を説得し退去させて城を接収。
慶長5年(1600年)8月11日、城内に兵を入れて、大垣城を西軍の本営としました。

一方の東軍も、福島正則らの先鋒隊が岐阜城や竹ヶ鼻城など美濃の諸城を次々と攻略。
8月24日、大垣城の西北わずか4㎞の赤坂に集結します。諸将は当地で家康の到着を待ち、大垣城の西軍と対峙を続けました。

そして9月14日、ついに家康本隊が赤坂に着陣します。すわ大垣城決戦か…。
しかし家康が矛先を向けたのは、大垣城のある南ではなく西でした。三成の本拠・佐和山城を攻め、そこから一気に大坂城を落とす…。そんな方針を示したのです。

■大垣城

当初、東軍・西軍ともに、大垣城が天下分け目の戦場になると考えていたと思われます。
特に三成は、ここに東軍を引きつけている間に、総大将の毛利輝元と豊臣秀頼を大坂城から出馬させる…そんな思惑を抱いていました。

家康としては籠城戦は避けたいところ。そこで三成の本拠地の佐和山城を攻め、そこから一気に大坂城を落とす方針を示しました。
それが本心だったかどうかはともかく、この方針は西軍方にも伝わり、戦いの舞台は家康が得意とする野戦…関ヶ原へと向かうことになるのです。


今日は、そんな幻の決戦の地、石田三成が西軍の本営とした大垣城を訪れましょう。
大垣城は美濃国西部、現在の岐阜県大垣市に築かれた平城。続日本100名城のひとつにも数えられる名城です。

現在、当地を訪れると、4層4階の白亜の天守がそびえ立ちます。
これは、昭和34年に再建された復興天守。三成が入城した当時は、これとは異なるものの、木造の天守があったものと考えられます。

(大垣城天守)

天守を造ったのは、三成が追い出した伊藤盛正の父・祐盛とされます。
その後、江戸時代に入り譜代の戸田氏が大垣藩主となって改修が行われ、現在のような天守や城郭が完成しました。大垣公園内に初代藩主・戸田氏鉄の像が立っています。

(左:戸田氏鉄像、右:大垣公園)

かつての大垣城は、水堀を幾重にもめぐらせた堅城で、敷地は現在の3倍以上、櫓の数は10を数える一大要塞だったと言われています。
東西の人や物が集まる交通の要衝、もちろん軍事でも重要な拠点。三成もそこに目をつけたのでしょうね。いまもいくつか櫓が再建され往時を偲ぶことができます。

(左:戌亥櫓、右:丑寅櫓)

かつての大垣城の姿を残すのは、当時は内柳門だったものを移設した東門
往時の大垣城の曲輪は7つの入口を持ち、「七口之門」と呼ばれていました。一部に桝形虎口の跡も残り堅固な造りだったことが分かります。

(左:東門、右:西門)

三成としては、ここ大垣城を決戦の地としたかったことでしょう…。
しかし、さすがは家康、籠城戦の不利を見通して、大垣城を攻めずに西へ兵を向けたのです。

これって、家康が若い頃、武田信玄にやられたことですよね…。そのとき家康は三方ヶ原で信玄にコテンパンにやられました。
果して関ヶ原では…?続きは、また当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」で綴ってまいります。

■基本情報

名称:大垣城
住所:岐阜県大垣市郭町2丁目52
アクセス:JR大垣駅から徒歩7分
営業時間:9:00~17:00
休業:火曜日・祝日の翌日・年末年始

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