こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「野田城」!武田信玄が生涯最後に攻めた城、信玄狙撃伝説も…です。
■家康を辿る物語
遠江の三方ヶ原で徳川軍を叩きのめした武田信玄は、続いて三河に向けて軍を進めます。
元亀4年(1573年)1月、徳川方の三河における属城のひとつ、野田城を包囲しました。
野田城は、小城ながらも丘陵地に建つ防御力の高い城でした。
城主・菅沼定盈は500余りの兵と共に野田城に籠城、30,000の武田軍の攻撃を耐えしのぎます。
すると信玄は、甲斐から金山掘りを呼び寄せて地下道を掘り、水の供給を断つ策に出ます。
結果として野田城は1ヶ月持ちこたえましたが、2月16日に城兵の助命を条件に開城降伏しました。
これにより、徳川の三河防衛線が崩れ、三河の本拠・岡崎城も危機に陥りました。
しかし、ここで武田軍の侵攻が止まります。戦国最強の武将といわれた武田信玄が突如亡くなったのです…。
■野田城
家康を辿る城旅…。今日は、武田信玄の三河攻略戦、奥三河にある「野田城」を訪れます。
場所は、現在の愛知県新城市。最寄り駅は、この城から名付けられたJR飯田線「野田城」駅です。
野田城駅から徒歩15分ほど、こんもりと木々が生い茂る丘陵地帯。ここが野田城跡です。
(野田城跡・丘陵部全景)
この丘陵地帯の西側に入口があります。近くの案内板に縄張り図が記されています。
それによると、野田城は、本丸、二の丸、三の丸が一直線上に並ぶ連郭式の城郭になっています。
(野田城入口、縄張り図)
入口があるのは二の丸と本丸の境目。二の丸から本丸に行く虎口には土橋が築かれています。
土橋横には、大規模な空堀が築かれています。これは大軍の武田軍も攻めあぐねたことでしょう…。
(土橋、空堀)
土橋を通って本丸へ。いまは木々が生い茂る森…。建物などの影も形もありません。
ここが城の本丸であることを主張するように、土塁のうえに「野田城址」の石碑が立っていました。
(本丸跡、野田城址碑)
本丸には、興味深い遺構がいくつか残っています。一つは、本丸南側にある井戸跡。
信玄は、本丸井戸に向かってトンネルを掘って井戸水を抜くことに成功。城兵の生命線である水を断ちました。
(井戸跡)
さらにもう一つ、本丸西側にあるのが「伝信玄公狙撃場所」です。
野田城の戦いの際に、笛の音に誘われた武田信玄をこの場所から狙撃したという言い伝えがあります。同地から西には、信玄が陣を置いたという法性寺が…。果たして真偽のほどはいかに…。
(伝信玄公狙撃場所、そこから見た法性寺方面)
■法性寺
それでは、その法性寺に足を運びましょう。入口には立派な山門が…。
実はこれ、野田城から移築された大門です。今は森になっている野田城跡ですが、当時は門や建物があったんですね…。
(山門、境内にある山道)
山門を通って境内へ。小高い丘を登っていくと、そこにありました。
信玄が鉄砲で撃たれたとされる場所が…。先ほどの野田城本丸の狙撃場所から約70mほど。たしかに狙える位置かも…。
(信玄公が撃たれた場所)
案内板には次のような伝承が記されています。
1573年(元亀4年)野田城を武田軍が攻めた折、信玄は、毎晩城内から流れて来る村松芳休の吹く見事な笛の音を、この場で聞き惚れていた。
(当地案内板より)
そこを、鳥居半四郎という鉄砲の名手が城内から発砲。
信玄は、この時の傷がもとで間もなく亡くなったとも伝えられている。
もちろん、真偽は不明。通説では信玄の死因は病気(胃癌か?)とされています。
それでも当地に残る遺構を訪れると、想像は際限なく広がります。だから城めぐりはやめられない…。
撃たれたかどうかはともかくとして、信玄が死亡したのは事実。
この事実は、武田軍のみならず、戦国時代の行く末も左右することになるのです。もちろん家康の将来も…。それについては、またこの後のブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」で綴っていくことにしましょう。
■基本情報
名称:野田城跡
住所:愛知県新城市豊島本城
アクセス:JR飯田線「野田城」駅から徒歩15分