こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、「即刻京に出撃すべきである」"鎌倉殿の13人"大江広元・三善康信ゆかりの鎌倉史跡へ…です。
(左:大江稲荷、右:問注所旧跡)
■迎撃か出撃か
頼朝の御恩は、山よりも高く、海よりも深い。今こそ、その御恩にこたえる時ぞ…。
北条政子の名演説により、御家人たちの心は一つになりました。いざ、京の上皇軍と戦おう…。
次は作戦会議です。ここで、迎撃か出撃かが問題となりました。
東国武士たちにとって、院宣に逆らっての戦いははじめて…。いわゆる賊軍です。はじめは箱根や足柄で迎え撃とうという迎撃論が大勢を占めました。
これに反対したのが、意外にも京出身の老文官・大江広元でした。
「守勢に立てば内部に動揺が走る。即刻京に出撃すべきである」と主張したのです。
さらに、出陣準備を進める北条泰時らに再び慎重論が出ると、これにも大江広元が強く反対します。
「ぐずぐずしている場合ではない。泰時一人でも出陣すれば、東国の兵は雲霞の如く集まろう」。
この広元の強硬論を、このとき病で床に臥していた老文官・三善康信が支持します。
「直ちに出発するべきである。関東の安否は今このときにかかっている」。
強硬論を展開したのが、奇しくも京出身の文官2人だったというのも面白いですね…。
鎌倉開府以来の重臣2人の鼓舞を受けて、東国軍は怒涛の進攻を開始します。いざ決戦の地、京都へ…。
■大江広元と三善康信ゆかりの鎌倉史跡
東国武士たちの背中を押した京出身の文官2人…大江広元と三善康信。
2人とも「鎌倉殿の13人」と呼ばれる13人合議制に名を連ねる重臣です。このとき13人のほとんどは残っていませんでしたが…。
今日は、そんな2人の鎌倉に残る史跡を巡りましょう。
まずは、大江広元。もとは朝廷に仕えていましたが、鎌倉に下って頼朝の側近となります。
頼朝の知恵袋として鎌倉幕府樹立に貢献。頼朝死後も、北条政子や北条義時と協調して幕政に参与しました。
そんな広元の屋敷は、将軍御所から東…今の鎌倉市十二所辺りにあったと伝わります。
現在は住宅街となっているその一角に、「大江広元邸跡」の石碑がありました。
能吏の印象のある広元ですが、晩年に訪れた朝廷との戦いで、彼は強く主戦論を展開しました。
さすがは東国に人生を賭けた官僚…。その胆力の強さは只者ではありません。
地元の人々も、そうした広元の胆力や鎌倉に残した功績に尊崇の念を抱いていたのでしょう。
邸跡からほど近いところに、「大江稲荷」という広元を祀る神社が建立されています。大河ドラマで広元を演じる栗原英雄さんも訪れたとのこと。広元は、承久の乱の4年後に没しました。享年78歳。
続いて、三善康信。もとは在京の公家。頼朝の乳母の妹の子で、流人時代の頼朝に月に3度京都の情勢を知らせました。
頼朝から鎌倉に呼ばれ政務の補佐を命じられ伺候。問注所の執事(長官)として裁判実務を司りました。
大河ドラマではでは、俳優の小林隆さんが愛嬌あるキャラとして演じているので、康信に好意を持っている人も多いのではないでしょうか。
歴史上の人物としては、裁判実務を取り仕切るなど、こちらも能吏の印象の強い人物です。
そんな三善康信が初代の執事を務めた問注所は、現在の鎌倉市御成町辺りにありました。
いま、その跡地には「問注所旧跡」の石碑が建っています。ここで康信は訴訟を裁いていたのですね…。
(問注所旧跡碑(右)とその近くにある裁許橋(左))
三善康信ですが、大江広元と同じく文官にかかわらず、強硬に主戦論を展開しました。
しかも彼は病の身を押して会議に出席して、即刻の出撃を主張したのです。康信は、承久の乱と同じ年、東国の勝利を見届けると間もなく息を引き取りました。享年81歳。
■基本情報
【大江広元邸跡】
住所:神奈川県鎌倉市十二所921−3
アクセス:JR鎌倉駅よりバス「泉水橋」下車、徒歩5分
【問注所旧跡】
住所:神奈川県鎌倉市御成町9−18
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩5分