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館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、戦国の雄・甲斐武田氏、天目山に滅ぶ…武田勝頼終焉の地「景徳院」です。
(景徳院総門)
■武田勝頼の末路
かつては戦国最強と謳われた甲斐・武田軍…。
しかし信玄の跡を継いだ武田勝頼は、長篠設楽原の戦いでの大敗や度重なる軍役への不満鬱積もあって、次第に統率力を失っていきます。
天正10年(1582年)2月、武田一門衆の木曽義昌が離反。これを機に織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻を開始します(甲斐征伐)。
すると武田方の武将は次々と勝頼のもとを離れます。一門衆の穴山梅雪が徳川家康に通じて離反、信玄の弟・武田逍遥軒も織田軍を前に逃亡しました。
兵力を大きく減退した勝頼は、諏訪から甲斐の新府城に撤退。その新府城も未完成であったことから火を放ち放棄します。
向かったのは、譜代家老の小山田信茂が治める岩殿城。しかし、この信茂までが勝頼を裏切りました…。
進路をふさがれた勝頼一行は、武田氏ゆかりの天目山棲雲寺を目指しました(このとき勝頼に付き随う者はわずか数十人だったとか…)。
しかし、その途上の田野で信長麾下の滝川一益に捕捉され、勝頼は嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害しました。これにより、甲斐武田氏は滅亡したのです。
(景徳院本堂からの眺望、没頭地蔵尊)
■武田勝頼最期の地
まさに坂道を転げ落ちるような凋落劇…。
戦国最強と謳われ、信長をも恐怖せしめた甲斐武田氏ですが、その末路は哀れでした。
今日は、その最期の地「天目山」(てんもくざん)を訪れましょう。
天目山は、山梨県甲州市にある峠で標高1,380mの山です。山中には、信玄が軍旗や軍配などを奉納したとされる棲雲寺があり、勝頼はここを目指したとされます。
しかしその途上、山麓の田野村で織田軍に捕捉され、当地で自害することとなりました。
勝頼とともに嫡男・信勝も自害。ここに、平安後期から続く名門・甲斐武田氏は滅亡したのです。
この地に建つのが、地名から「田野寺」とも呼ばれる寺院「景徳院」(けいとくいん)です。
この寺院は、後に甲斐を領した徳川家康によって建立されました。武田勝頼父子および家臣の慰霊のためでした。
(山門、本堂)
家康の意図としては、旧武田の家臣や領民の信望を得たかったというのもあったでしょう。
ただ戦国ファンとしては、熾烈な戦いを繰り広げたライバルへの特別な気持ちもあったのでは…なんて思いたいところです。
境内には、その武田勝頼の墓もあります。同じく当地で自刃した嫡男・信勝と妻・北条夫人の墓も並んでいます。
実は信玄時代よりも領地を広げたんですよね、勝頼は。如何せん最後が酷かったために愚将のレッテルが付いてしまった感があります。
(武田勝頼の墓/中央が勝頼、向かって右手が北条夫人、左手が信勝)
勝頼親子が自刃した生害石もあります。ちなみに勝頼は37歳、嫡男・信勝は16歳でした。
勝頼の妻・北条夫人も、勝頼から実家の北条家に逃げるように言われましたが、それを拒んで自害しました。享年19歳(信勝の生母ではありません)。
(生害石/左から武田勝頼、武田信勝、北条夫人)
境内には、その北条夫人の辞世の句を刻んだ歌碑も建っています。
「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」。まさに、露のように儚く消えた人生でした…。
同じく儚く命を終えたのが、北条夫人に付き随ってきた侍女16人です。夫人の死を見届けると、彼女たちも近くを流れる日川に身を投じて殉死しました。
その場所は「姫が淵」と呼ばれています。いま当地には、北条夫人と16人の侍女の姿を刻んだ大きな石のレリーフが設置されています。
(北条夫人歌碑、姫が淵)
新羅三郎義光(源義光)から連綿と続いた名門・甲斐源氏は、ここに滅びました。
しかし、戦国の世は感傷に浸る時間を与えません。さらに、武田の領地をめぐって戦乱が広がっていくのです。はたして、このような悲運が消える時代は訪れるのでしょうか…。
■基本情報
名称:景徳院(田野寺)
住所:山梨県甲州市大和町田野389
アクセス:JR甲斐大和駅からバスで10分