豊臣秀長邸跡「大坂城西の丸」!家康ついに上洛…会談前夜の思わぬ出来事とは?

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、豊臣秀長邸跡「大坂城西の丸」!家康ついに上洛…会談前夜の思わぬ出来事とは?です。

■家康を辿る物語

ついに豊臣秀吉への臣従を決意し、上洛の途に就いた徳川家康
天正14年(1586年)10月26日、大阪に到着すると、翌日の会見に備えて秀吉の弟・秀長の屋敷に宿泊しました。

秀長邸で家康と秀長が会談していると、そこに思わぬ来客が…
現れたのは、明日会見する予定の関白秀吉でした。秀吉は家康の手をとると、天下泰平のために臣従してほしいと話したとされます。

一方の家康は、秀吉の着ていた陣羽織を所望。秀吉がその理由を問うと、家康は…。
「もう二度と殿下に陣羽織を着させない」(戦いがあったときは家康が成敗する)と宣言したという逸話が残ります。

こうして、秀吉との間にあったわだかまりを解いた家康は、翌日大坂城に登城。
秀吉と謁見すると、諸大名の前で丁重にあいさつし、秀吉への臣従を誓いました。

(大坂城と桜)

■豊臣秀長邸

秀吉の天下にとって重要な節目となったのが、家康の上洛そして臣従です。
このとき自らの屋敷を家康に提供するなど、この歴史的な会談の成就に大きく貢献したが、豊臣(羽柴)秀長でした。

天下人・秀吉の弟にして右腕。その手腕で秀吉の躍進を縁の下から支えました。
2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で主人公に取り上げられることになりましたね。これから秀長ゆかりの史跡が注目されていくことでしょう。

今回はその一つ、秀長が上洛した家康に宿所として提供した自邸、「豊臣秀長邸」です。
その秀長邸があったとされるのが、いまの大坂城の西の丸。現在は西の丸庭園となっている場所です。

(大坂城西の丸庭園)

会談前夜、ここを突然秀吉が訪れたのはさまざまな史料から事実とされます。
はたして秀長は知っていたのか…。真相は不明ですが、この会談を含めて秀吉政権における秀長の存在は相当大きかったと考えられます。

秀長はこの会談からしばらくして病に伏せるようになり、天正19年(1591年)病没
「秀長が長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だった」と言われるように、それは豊臣家終焉のはじまりだったのかもしれません…。

なお、この豊臣秀長邸跡の近く、大阪城の敷地内に「大阪城豊國神社」があります。
ご祭神として、豊臣秀吉、秀頼に加えて、豊臣秀長も奉祀されています。秀長に対する崇敬の篤さをうかがい知れますね…。

(大坂城豊國神社)

境内には、秀長が生涯かけて支えた兄・豊臣秀吉の像もあります。
しかし、その秀吉は秀長を失ってから、タガが外れたように迷走していくことになるのです。はたして家康はどうするのか。続きはまた、当ブログで綴っていきたいと思います。

■基本情報

名称:大坂城西の丸庭園
住所:大阪府大阪市中央区大阪城2
アクセス:JR「大阪城公園」駅、 JR・地下鉄「森ノ宮」駅、地下鉄「谷町四丁目」駅下車すぐ

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事