小田原合戦「小田原城」!小田原評定の明と暗…関東の雄・北条氏滅ぶ

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、小田原合戦「小田原城」!小田原評定の明と暗…関東の雄・北条氏滅ぶ…です。

■家康を辿る物語

突如として目の前に現れた石垣山城…。その威容は小田原城の北条氏を狼狽させました。
城内では、徹底抗戦か降伏か長く議論が続いていましたが、ついに降伏へと小田原評定は傾いていきました。

降伏に向けた交渉は、水面下で小田原城主の北条氏直から徳川家康と織田信雄を窓口にして進んでいました。
そして天正18年(1590年)7月、氏直は自らの切腹と引き換えに城兵の赦免を申し出、秀吉に降伏を伝えたのです。

秀吉は、氏直の申し出が神妙であったことに加え、氏直が徳川家康の娘婿でもあったことから、一命は温存して高野山に蟄居謹慎を命じます。
一方で、主戦派の父・氏政とその弟・氏照ら4者に開戦の責があるとして切腹を命じました

開城された小田原城に入った秀吉は、諸将に対し家康の関東移封を公表しました。
家康は、故郷三河を離れることに不満を抱く家臣らを説得し、新たな決意をもって運命の地・江戸へと出立することになったのです。

■小田原城

小田原評定(おだわらひょうじょう)。北条氏の執った重臣会議のことです。
北条氏では、当主の専制政治でなく、北条氏に仕える評定衆の合議によって議事を決しました。北条家臣団の強い結束を示す特徴的な政治スタイルです。

しかし小田原合戦では、籠城か出撃か、降伏か決戦か、小田原城に集まった重臣らで意見が対立してまとまりませんでした。
そのことから、現在では「小田原評定」といえば、「いつになっても結論の出ない会議」という意味が定着してしまっています。

その小田原評定がここで行われてのでしょうか…。いま小田原城を訪れると、本丸跡に白亜の天守がそびえ立ちます。
この天守は1960年に再建された復興天守。江戸時代に造られた複合式天守閣をもとに外観復元されています。

小田原合戦のときも、豊臣方の対決を意識した改修が施されましたが、城下が大きな戦場となることはなく降伏開城となりました。
北条氏が降伏した後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸入府を決めた家康はこの小田原城を腹心・大久保忠世に任せました。

■戦のあと(北条氏政・氏照の墓所)

小田原城の落城によって、無念の最期を遂げた北条氏政・氏照
北条氏政は、北条氏4代の当主。氏照はその弟で、八王子城など5つの支城の城主でした。

強硬な主戦派だった両名は、戦の責任をとる形で切腹。両人の遺体は、北条氏の氏寺・伝心庵に葬られました。
その後放置されていた墓所は、地元の有志らによって復元。いま小田原駅近くに両名の墓所を拝むことができます。

中央に2つの五輪塔がありますが、向かって右が氏政の墓左が氏照の墓です。
五輪塔前にある平たい石は、この上で氏政・氏照が自害したと伝わる生害石です。

なお、北条氏政については、時流を読めない暗愚な武将という評価がありますが、その主戦論の影には、源頼朝以来の「東国武家社会の伝統」を守るという意図があったとも言われます。
果たして、実際はどのような人物だったのでしょうか…。墓所には多くの「幸せの鈴」がかけられていました。

■基本情報

【小田原城】
所在地:神奈川県小田原市城内6-1
アクセス:JR小田原駅から徒歩10分
営業時間(天守):9:00~17:00
料金(天守):大人510円、小中学生:200円

【北条氏政・氏照の墓所】
所在地:神奈川県小田原市栄町2-7-8
アクセス:JR小田原駅から徒歩5分

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