家康を辿る城旅「田原城」!かつては海水が城郭を囲んだ堅城…家康、因縁の城を攻略へ

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「田原城」!かつては海水が城郭を囲んだ堅城…家康、因縁の城を攻略へ…です。

■家康を辿る物語

天文16年(1547年)、松平竹千代(後の家康)は人質として今川氏の本拠駿府に送られることになりました。
その随行の任を担ったのが、田原城を治める戸田康光率いる戸田氏でした。

田原城は渥美半島半ばに位置する海に面した城。竹千代一行は、船で駿府に送り届けられる予定でした。
しかし、ここで戸田氏が裏切ります。竹千代を乗せた船は三河湾を西に進み、尾張織田氏のもとに到着させたのです…。

それから時が流れて永禄8年(1565年)、松平家康による三河平定が進みます。
今川方の拠点である吉田城が家康に攻略されると、家康は本多広孝を先鋒に田原城を攻撃

田原城を攻略すると、本多広孝がそのまま城主として入城しました。
家康はさらに、残る三河の諸城も配下に治め、念願の三河平定を成し遂げました。

■田原城 二の丸・三の丸

家康を辿る城旅…。今日は、家康にとって因縁の城ともいえる「田原城」を訪問します。

築城は文明12年(1480年)頃、戸田氏中興の祖である戸田宗光が築城しました。
江戸時代前期に田原湾が新田開発されるまで、満潮時には海水が城郭を囲んだといいます。その様子が巴文に似ていることから「巴江城」とも呼ばれていました。

今も当時の名残りを残す水堀があります。左側が「枡池」、右側が「袖池」
近世城郭の特徴である石垣も残っています。これは、家康関東移封後に東三河に入った池田輝政によって整備が進められたものと考えられます。

(左:枡池、右:袖池)

その堀と石垣に守られた城の大手口にあたる城門が、1992年に復元された「桜門」です。
これは美しい…そして荘厳です。創建時のものと思しき野面積みの石垣を間近に見ることができました。

(桜門)

桜門をくぐると白亜の櫓がそびえ立ちます。「二の丸櫓」です。
こちらも荘厳ですね…。この櫓は1957年に復元されたもの。二の丸跡は現在、田原市博物館となっています。

(二の丸櫓)

続いて二の丸の東側へ…かつての「三の丸」に足を延ばします。
こちらは南側に袖池があって、荘厳な石垣に守られた曲輪になります。三の丸跡にはいま護国神社が建っています。

(三の丸跡)

■田原城 本丸

そして、二の丸と三の丸の奥にある広々とした曲輪へ…。こちらが「本丸」跡です。
今は巴江神社が建っています。ここにかつては、戸田康光や本多広孝ら城主がいたのでしょう。なんか胸アツですね…。

(本丸跡)

本丸と二の丸・三の丸の間には、立派な空堀が築かれています。
二の丸側は堀へ降りることもできます。ここは堀側から石垣をよく見れるのでおススメです。かつては水堀につながっていたと考えられます。

(空堀)

これは、なかなかに手ごわい堅城です…。家康は田原城を攻略するため、西ノ郡(現在の蒲郡市)から船で上陸し、近くの長泉寺に本陣を敷きました。
そこから今川軍を圧迫し、ついには今川軍の籠る城を陥落させました。こうして、家康は因縁の田原城を攻略、吉田城や牛久保城も落として、悲願の三河平定を成し遂げたのです。


なお、人質時代の家康(竹千代)を尾張に送ったとされる戸田康光ですが、その後激怒した今川義元に田原城を攻められ討死。これにより田原戸田氏は滅亡しています。
しかし、最近の研究では、岡崎城を織田氏に攻め落とされた松平広忠(家康の父)が自ら竹千代を人質に出したとする説が有力になっています。

だとすると、戸田康光の裏切りそのものが事実として成立しなくなりますね…。
近年の研究では、戸田氏と牧野氏の所領をめぐる争いから、今川氏が戸田氏を攻める事態になったとする考え方があります。果たして実際はどうだったのか…。戸田氏が滅亡したことで、真相は闇のなかです。

■基本情報

名称:田原城
住所:愛知県田原市田原町巴江10−13
アクセス:豊橋鉄道渥美線「三河田原」駅下車、徒歩15分

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事