こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「安祥城」!家康の父祖・松平氏飛躍の城、そして家康の運命を左右した城です。
■家康を辿る物語
岡崎城主・松平広忠死す…。この報を受けて、今川義元が素早く動きます。
主のいなくなった岡崎城を接収すると、軍師・雪斎を将とする1万の軍勢を派遣して、織田軍と対峙します。
雪斎は軍を率いて、織田信広(信長の異母兄)が城主を務める安祥城に迫ります。
狙うは、敵将・信広の生け捕り…。雪斎は松平家臣団も指揮して、周辺の城砦を攻略。天文18年(1549年)11月、ついに安祥城を陥落させました。
目論見通り、織田信広を捕縛した雪斎は、織田氏の人質となっていた竹千代と信広の交換を提案。
信広は織田家当主・信秀の諸長子です…。信秀はこれを飲みました。
ついに嫡子・竹千代が戻って来る…。松平家臣団は歓喜しましたが、義元は竹千代の岡崎帰還を認めませんでした。
竹千代はそのまま駿府に送られ、岡崎城には義元配下が城代として派遣されました。
(安祥城址の碑と井戸跡)
■安祥城
今日の城ぶら「家康を辿る城旅」は、家康父祖の松平氏ゆかりの「安祥城」です。
安祥城は、永享12年(1440年)畠山一族の和田親平が築城したとされる平山城です。
戦国時代には、徳川氏の祖・松平氏が居城しました。特に、家康の祖父・松平清康は岡崎に移るまで安祥城を拠点に権勢を振るいました。
しかし、清康は尾張侵攻の途上で落命…。逆に尾張の織田信秀に攻められ安祥城を奪われます。
信秀は息子の信広を城代として置きました。その後、安祥城は織田氏と今川・松平氏との激しい攻防の地となります。それは、尾張で人質生活を送っていた家康の運命も左右したのです…。
安祥城は三河国安城、現在の愛知県安城市にありました。
城跡は安祥城址公園として整備されていて、歴史博物館や市民ギャラリーなどがあります。
戦国時代の遺構は、残念ながら残っていません…。ただ、広大な敷地に当時の威容が偲ばれます。
二の丸跡には「八幡社」。創建の時期は定かではありませんが、安祥城の守護神として造られたと見られ、清康も信仰したものと考えられます。
本丸跡にはいま「大乗寺」が鎮座しています。こちらは江戸時代に当地に移転、現在に至っています。
安祥城は、桶狭間合戦の後、松平元康(のちの徳川家康)と織田信長の同盟が締結されると、岡崎城の前線としての価値が薄れ、廃城となりました。
大乗寺の北側にある墓地の一角には、徳川四天王の一人・本多忠勝の父「本多忠高」の墓碑があります。
忠高は、天文18年(1549年)の安祥城攻めで、織田信広を捕縛しようと焦るあまり敵方に深入りしすぎて討死…。その父・本多忠豊も松平広忠(家康の父)を守るために討死しており、本多家の主君に対する忠誠心がはかり知れます。
家康そして松平家の運命を左右した「安祥城」。
織田氏に奪われた同城を攻略した今川・松平軍は、捕虜にした織田信広と尾張に捕らわれていた竹千代(家康)を交換。そして、家康は今川氏の本拠・駿府に送られることになったのです。
駿府に送られた竹千代(家康)の運命はいかに?家康を辿る城旅…その後の激動の生涯については、また当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら!」にて語っていきます。
■基本情報
名称:安祥城址(安祥城址公園)
住所:愛知県安城市安城町赤塚1
アクセス:南安城駅から徒歩で10分
営業時間:24時間