こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、いざ関ヶ原「徳川家康最初陣跡」!家康は古の内乱ゆかりの桃配山に布陣!です。
■いざ関ヶ原へ
慶長5年(1600年)9月14日。美濃大垣の赤坂に着陣した徳川家康。
石田三成ら西軍の立て籠もる大垣城に向かうと思いきや、軍勢を西に進め、三成の本拠・佐和山城を攻めて、さらに大坂城を落とす方針を示しました。
この情報を得た三成は、東軍の進軍を食い止めるべく闇に紛れて大垣城を出ると、防衛線とする関ヶ原の地に向かいました。
そうした西軍の動きを家康も察知、そして東軍諸将に全軍進軍を命じます。向かうは、美濃大垣から西に進んだ関ヶ原…。
こうして翌9月15日、決戦の地・関ヶ原に三成率いる西軍と家康率いる東軍とが集結します。
三成は関ヶ原の北西に位置する笹尾山へ、一方の家康は関ヶ原東側の桃配山に陣を敷きました。天下分け目の関ヶ原、いよいよ決戦のときがやって来ます。
■桃配山
いよいよ迫る決戦のとき…。要衝の大垣城に本営を置き、決戦に備える石田三成。
一方の徳川家康は、長期化が懸念される城攻めではなく、野戦による短期決戦に持ち込むため、大垣城を素通りして大坂へ西上するという噂を西軍に流したと言われます。
そうしてついに、決戦の地・関ヶ原へと東西両軍の兵が集結しました。
約3万の兵を率いる家康が本陣を置いたのは、関ヶ原東側の桃配山でした。当地に今も「徳川家康最初陣地」という史跡が残ります。
この山は、古代史上最大の内乱とされる壬申の乱にて、勝者である大海人皇子が陣を敷いたとされる場所。
その際、大海人皇子が名産の山桃を兵士に配って戦いに快勝したことから、「桃配山」と名づけられました。
家康はその故事にならい、縁起を担いでこの場所に陣を置いたといわれています。
信心深い家康らしいエピソードですね。関ケ原の合戦時に徳川家康が使用したとされる腰掛石と机石が今も残っています。
当地から西を見わたすと、遠くに決戦の地となる関ヶ原を視野に入れることができます。
ただ、家康が当地に布陣したのは午前6時ごろ…。その日は小雨が降り濃い霧が立ち込めていたといいます。
霧のなか先を見通せぬ関ヶ原を前に、家康の胸中をどのような思いが去来したのでしょうか。
その霧が晴れるころ、ついに戦いの火ぶたが切られることになるのです。続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」にて綴ってまいります。
■基本情報
名称:桃配山・徳川家康最初陣跡
住所:岐阜県不破郡関ケ原町野上1424−1
アクセス:JR関ヶ原駅から徒歩24分または車