こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、城ぶら「名護屋城」!秀吉の新たな野望"唐入り"…諸大名らが肥前名護屋に集結です。
(名護屋城遊撃丸から玄界灘を臨む)
■家康を辿る物語
小田原攻めに続き奥州平定を成し遂げ、国内統一を果たした天下人・豊臣秀吉。
秀吉はさらに狙いを海の向こう…明国の征服に定めて、朝鮮に出兵することを決定します。
その理由として、国内の領土を平らげた秀吉が家臣に知行地を与えるために領土拡大を求めたという説や、当時の東アジアにおける明の地位が南蛮諸国の来航により大きく低下していたためという説などが挙げられていますが、定かなことは分かっていません。
朝鮮出兵に向けた軍事動員の指令は、天正19年(1591年)9月に発せられました。
秀吉の命令に従い、諸大名率いる大量の軍兵が秀吉の築いた前線基地・肥前名護屋の地に参陣します。
ここに、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて2度にわたる朝鮮出兵、「文禄・慶長の役」が始まりました。
秀吉が「唐入り」と称したこの戦いは、秀吉による朝鮮への侵略戦争でした。そして、それは秀吉の治績を汚す悲惨な結果を招くことになるのです…。
(安宅船と名護屋城模型/名護屋城博物館)
■名護屋城
天下統一を果たした豊臣秀吉が抱いた新たな野望、大陸進出「唐入り」。
秀吉は、その前線基地として、玄界灘に面した肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に大掛かりな城を築きました。
それが、17万㎡にも及ぶ広大な陣城「名護屋城」です。日本100名城にも選ばれています。
巨大な五重天守や豪華絢爛な御殿が建てられ、諸大名が周りに約130もの陣屋を構えたといいます。
城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には京をもしのぐ繁栄ぶりを見せました。
…が、文禄・慶長の役の終結により廃城。その後に多くが破却され、往時の威容を今に見ることはできません。
それでも当地には、石垣などの遺構が残ります。大手口から「城ぶら」していきましょう。
さっそく目の前に現れる破却された石垣の数々…。名護屋城の石垣は、島原の乱のときに廃城の原城が利用されたことを教訓として破壊されたと考えられています。
大手口から長い坂を歩いていくと、三ノ丸へ。さすがは天下人・秀吉の本陣、広い…。
この三ノ丸を守るように出丸や櫓が造られたようです。なかでも巨大な鏡石を用いた三ノ丸櫓台は圧巻。本格的な築城がされたことが分かります。
さらに三ノ丸から二ノ丸に向かう途中には、石垣ファンにはたまらない石垣の遺構が並びます。
長さ100mに連なる馬場の石垣は、築城時の様子と崩壊した状況を同時に観察することができます。
そんな石垣の崩壊美も楽しみながら二ノ丸へ。こちらも広い…。
発掘調査で名護屋城の時代のものと思われる堀立柱建物跡が発見されています。その数3棟、誰がどんな使い方をしていたのでしょうか…。
さらに、明国の講和使節(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪と言われる遊撃丸へ。
発掘調査では金箔瓦も出土。豪華絢爛な建物があったことが推察されます。遊撃丸の向こうには玄界灘が広がっていました。
そして、いよいよ本丸へ…。御殿が建っていた場所には城址碑が建っています。
発掘調査では礎石や玉石敷が確認されていて、天守だけでなく櫓があったことも分かります。
この本丸の一画にあったのが天守台。かつては五層七階の天守閣が建っていたと伝わります。
当時の図屏風に残された姿は豪壮優美…その高さは石垣から25~30mあったと推定されています。秀吉もここから海の向こうに思いを馳せていたのでしょうか…。
本丸には昭和初期に建てられた俳人・青木月斗の句碑があります。
「太閤が 睨みし海の 霞かな」。そう…秀吉の大陸進出の野望は、やがて霞のように消えていくのです。
■基本情報
名称:名護屋城
住所:佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3
アクセス:唐津駅大手口からバスで30分