今川義元最期の場所か?「桶狭間古戦場伝説地」!義元本陣跡「高徳院」も

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館長のふゆきです。

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今日の夢中は、今川義元最期の場所か?「桶狭間古戦場伝説地」!義元本陣跡「高徳院」も…です。

■今川義元

「海道一の弓取り」の異名を持つ戦国大名、今川義元

今川家の3男として生まれた義元は、幼くして出家して仏門に入りますが、兄が急逝したことから還俗
異母兄の玄広恵探との家督争い(花倉の乱)を制して、今川家当主の座に就きます。

義元は、側近に太原雪斎を登用して、駿府・遠江に支配を広げていきました。
やがて、三河の地に尾張の織田信秀が侵出すると、当地の松平氏を援けるために出兵。織田軍を撃退すると、実質的に三河を支配下におさめました。

このとき、織田方にいた松平竹千代(後の徳川家康)を人質交換により取り戻し、駿府に送って今川方の人質としています。
こうして駿府・遠江に加えて三河をほぼ領国化した義元は、武田・北条と三国同盟を締結。東の備えを万全とすると、ついに西に進軍を開始しました。

永禄3年(1560)5月、駿遠三の兵力を動員して尾張へ侵入。先鋒の松平元康らが織田方の丸根砦・鷲津砦を陥落させます。
緒戦の勝利に兵気が上がるなか、義元は本陣を桶狭間に移します。

同月19日、運命のときが訪れます…。桶狭間に滞陣中の義元を、織田信長が急襲
予期せぬ奇襲に混乱するなか、義元は自ら太刀を振るって奮戦しますが、織田方の毛利新助に組み伏せられ、首を討ち取られ死亡…。享年42歳でした。

■桶狭間古戦場伝説地

そんな今川義元最期の地、桶狭間古戦場跡を訪れましょう。
前回、現在の名古屋市緑区にある「桶狭間古戦場公園」を訪れましたが、実はもう一つ、桶狭間の古戦場とされる場所があります。

🔽前回訪れた「桶狭間古戦場公園」(名古屋市)についてはこちら。

それが、愛知県豊明市にある「桶狭間古戦場伝説地」です。
古くから今川義元の本陣跡そして戦死場所と言われていた場所で、国指定史跡に指定されています。

(左:史跡桶狭間古戦場の石柱、右:桶狭弔古碑)

敷地内に点在する「七石表」は、明和8年(1771年)尾張藩士の人見弥衛門・赤林孫七郎によって建立された石碑です。
今川方武将7人の戦死場所を示すとされます。一号碑は義元が戦死した場所を今に伝えています。なお、二号碑は松井宗信、三号碑以下は義元配下の武将(氏名不詳)の戦死場所とされます。

(左:一合碑(今川義元)、右:二号碑(松井宗信))

その今川義元の墓もあります。「今川治部大輔義元の墓」と刻まれた石碑は、塚であったところに明治9年に建てられた墓碑。
道路を挟んだ向かい側には、「今川義元仏式の墓碑」があります。こちらは、義元の三百回忌(万延元年)にあたり建てられたものです。

(左:今川治部大輔義元の墓碑、右:今川義元仏式の墓碑)

■高徳院

桶狭間古戦場伝説地のすぐ近くに建つのが「高徳院」です。
この境内に、今川義元の本陣があったと伝わります。そのとき義元は、間もなく訪れる悲運など全く予期していなかったことでしょう…。

さて、名古屋市と豊明市と、2つある桶狭間古戦場跡ですが、詳細な結論はなお出ていません。
七石表など古い言い伝えからすると豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」、一方で「信長公記」の記述によると名古屋市にある「桶狭間古戦場公園」が有力になるようです。

桶狭間の戦いは、今なお戦いの真相が分からないほど、誰も予期しない奇襲でした。
この戦国の世を揺るがす織田信長の奇襲によって、「東海一の弓取り」今川義元はその首を討ち取られたのです…。

■基本情報

名称:桶狭間古戦場伝説地
住所:愛知県豊明市栄町南舘11
アクセス:名鉄「中京競馬場前」駅から徒歩4分
営業時間:24時間

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