こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「牛久保城」 家康、独立を決意!今川方の"牛久保城"を攻撃です。
■家康を辿る物語
念願の岡崎城入城を果たした松平元康(家康)。
しかし、隣国尾張の織田氏は勢いを増すばかり…。元康は織田氏の攻勢の最前線にいました。
元康は再三再四、今川義元の後を継いだ氏真に支援を要請しますが、今川からはなしのつぶてでした。
このとき氏真は、上杉謙信の関東侵攻を受けて同盟国の北条・武田を支援…。三河の元康への援軍は後回しにされたのです。
どうする家康…。氏真の支援が期待できない元康は、今川氏からの独立を決断。
永禄4年(1561年)2月頃、水野信元(元康の叔父)の仲介で、織田信長と和睦しました。
さらに同年4月、元康は今川方の牛久保城を攻撃。
氏真はこの事態を全く予期しておらず、この行為を元康の「逆心」「錯乱」などと記しています。
こうして、元康は今川氏から明確に独立。今川氏と敵対することになったのです。
■牛久保城
家康を辿る城旅…。今日は、家康が独立の狼煙を挙げた「牛久保城」を訪れましょう。
城跡は、現在の愛知県豊川市、JR牛久保駅近くにあります。
…といっても、城域の多くは宅地開発されており、当時の遺構はほとんど残っていません。
わずかにJR飯田線の線路わきに、城跡であったことを示す石碑や案内板があるのみ。
奥には、土塁と思しき丘陵部もあります。当時はもっと土塁があったんだろうな…。
古図を見ると、牛久保城は堀に囲まれた相当規模の城であったことが分かります。今川方の東三河統治の重要拠点だったのでしょう。
この牛久保城に家康が攻め寄せたのは、桶狭間の戦いから約1年後のことでした。
このとき、城主の牧野成定は西尾城にいて不在。守備が手薄となった隙を狙って、家康は夜襲を仕掛けました(永禄4年4月11日牛久保城の戦い)。
それでも、牛久保城の留守衆が奮戦して松平軍を撃退。かろうじて城を死守しました。家康は奇襲に失敗したのですね…。
やがて成定が牛久保城に戻ると、同城は吉田城とともに、今川氏真の対松平反撃拠点となりました。
■今川義元の胴塚
家康の今川方からの独立…その発端は、桶狭間での今川義元の討死にあります。
これにより、家康は岡崎に帰還し、三河をめぐる勢力図は急変。西の織田は強大になり、東の今川は弱体化しました。
その今川義元ゆかりの史跡が、牛久保城の近くにあります。
それが、牛久保「大聖寺」。ここにあるのが、「今川義元の胴塚」です。
桶狭間で首を取られた義元…。今川の家臣たちは、残された義元の胴体を駿河に運ぼうとします。
しかし途中で遺体は傷んできました。家臣らは止む無く、牛久保の大聖寺境内に葬りました。
どこに埋めたか分かるように、墓じるしとして手水鉢を置いたそうです。
その後、義元の子・氏真により大聖寺で三回忌が営まれ、墓となる宝塔が建てられました。
■牧野成定の墓
さらに少し足を延ばすと、牛久保城主・牧野成定の墓「牧野成定公廟」があります。
先述のとおり、成定は、松平軍の奇襲を退けた牛久保城に戻ると、その後松平軍に徹底抗戦しました。
永禄6年(1563年)には、今川氏真を牛久保城に迎え、その本陣を同城に置いて松平軍と対峙。
しかし氏真の三河出陣はこれが最初で最後…。牧野軍の奮戦むなしく、周囲は松平方に旗色が変わっていきました。
そして永禄9年(1566年)今川方の頽勢が明らかになると、頑強に抵抗してきた成定も家臣の進言を受け容れついに家康に帰順。
これにより、家康の三河平定が果たされることになりました。
牛久保城は、東三河の城のなかで、最初に家康に攻められ、最後まで抵抗した城なんですね…。
その城主・牧野成定は家康に帰順すると間もなく、42歳で病死しました。なお、成定の血統はその後譜代大名として長岡藩主など幕府の要職を務めることとなりました。
■基本情報
【牛久保城跡】
住所:愛知県豊川市牛久保町城跡
アクセス:JR牛久保駅から徒歩2分
【今川義元公胴塚】
住所:愛知県豊川市牛久保町岸組61
アクセス:JR牛久保駅から徒歩6分
【牧野成定公廟】
住所:愛知県豊川市千歳通4丁目
アクセス:JR牛久保駅から徒歩13分