京都に残る悲劇のあと「聚楽第」「瑞泉寺」!秀吉迷走…悲運の関白・豊臣秀次切腹事件

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、京都に残る悲劇のあと「聚楽第」「瑞泉寺」!秀吉迷走…悲運の関白・豊臣秀次切腹事件です。

■豊臣秀次切腹事件

豊臣秀吉に待望の実子・秀頼が誕生…。
秀吉はじめ家臣らが喜ぶなか一人、その報に恐れおののく武将がいました。

豊臣秀次。秀吉の甥で、実子のいない秀吉の後継者として、このとき関白に就いていました。
秀頼誕生によって自身は無用になるのではないか…。秀次の不安は現実のものとなります。

文禄4年(1595年)6月、突如として秀次に謀反の疑いが持ち上がります。
秀次は冤罪を訴えますが、秀吉は聞く耳を持たず…。秀次を高野山に追放すると、のちに切腹を命じました。

それでもなお、秀吉の怒りは収まらず、秀次の邸宅であった聚楽第を徹底的に破却
さらに秀次の一族郎党をことごとく処刑…。幼い若君や姫君、側室・侍女らも京の三条河原で全員斬首されました。

■聚楽第

秀吉の狂気、ここに極まれり…。そんな痛ましい事件が、「豊臣秀次切腹事件」と呼ばれる内紛です。秀吉の跡を継いで関白の座に就いていた豊臣秀次が謀反を企てたとして切腹…。
この背景に、事件の2年前に誕生した秀頼の存在があったことは間違いないでしょう。秀次は怯え、秀吉はわが子可愛さに正気を失いました。

悲劇の象徴ともいうべき場所が、京都の「聚楽第」(じゅらくだい/じゅらくてい)です。
関白になった秀吉が京都に造営した政庁兼居館。その後、関白職を秀次に譲ると、聚楽第は秀次の邸宅となっていました。

東西約600m・南北約700mにも及ぶ、天下人を象徴する豪華絢爛な館であったとされます。
その聚楽第を事件後、秀吉は徹底的に破壊しました。まるで秀次の痕跡をこの世から消し去るように、基礎から堀まで破却、周囲にあった大名邸宅まで取り壊しました。

現在、跡地にはひっそりと、聚楽第があったことを示す石碑が建っています。
一つは、本丸の東堀跡とされる「聚楽第址」の石碑。ここでは、1992年の発掘調査で金箔瓦約600枚が出土しました。
どれほどの建物があったのでしょうか…浪漫が広がります。石碑の東面には「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」と刻まれていました。

今ひとつは、本丸の西堀跡と見られる場所に建つ「此付近 聚楽第址」の石碑。こちらも、豪華絢爛な館があったとは想像できないほどひっそり佇んでいます。
立て看板には、「安土桃山時代に平安宮跡北東部分に豊臣秀吉によって築かれた聚楽第と呼ばれる城があった」と記されていました。

■瑞泉寺

悲運の関白・豊臣秀次。秀吉に切腹を命じられた秀次は、28歳にしてこの世を去りました。
悲劇はこれだけで終わりませんでした…。怒り収まらぬ秀吉は、秀次の一族郎党をことごとく処刑しました。

北政所らの助命かなわず、京の三条河原で公開処刑が行われ、幼い若君4人と姫君、側室・侍女・乳母ら39人全員が斬首されました。
大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられ、秀次の首と合わせて首塚が造られました…。

それから16年後の1611年(慶長16年)。豪商の角倉了以が、高瀬川の開削工事を行っていたときに、三条で荒廃した首塚を発見します。
秀次と一族に同情していた了以は、墓域を再建するとともに、その地に堂宇を建立しました。それが三条大橋の近く、高瀬川のたもとに今もひっそりと建つ瑞泉寺です。

境内には、秀次の供養塔や一族・家臣らを弔う墓(五輪塔)があります。
秀次供養塔は、首塚で発見された石櫃の上に6角形の無縁塔を建てたもの。発見当時「秀次悪逆」と刻まれていたものを了以が削りとって納めました。

また、一族の処刑の場に運び込まれ、子女らに引導を授け続けたと伝わる地蔵菩薩像、通称「引導地蔵尊」も祀られています。
堂内には子供たちや女性の小像が…。なんとも切ないですね。静かに手を合わせました。

今日の城ぶらは、悲劇の関白・豊臣秀次ゆかりの「聚楽第」と「瑞泉寺」を訪れました。
正気を失う天下人・秀吉…。その迷走を止めるかのように、秀吉の天命は尽きることになるのでした…。

■基本情報

【聚楽第址】
住所:京都市上京区新元町222 大宮通
アクセス:地下鉄「今出川駅」徒歩21分、バス「千本出水」徒歩8分

【瑞泉寺・豊臣秀次墓所】
住所:京都府京都市中京区木屋町通三条下る石屋町114
アクセス:京阪「三条駅」徒歩5分 · 地下鉄「三条京阪駅」徒歩8分

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