北条時房、京から三寅を連れて帰る…「北条時房邸跡」他ゆかりの史跡めぐり

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、北条時房、京から三寅を連れて帰る…「北条時房邸跡」他ゆかりの史跡めぐり…です。

■次の鎌倉殿の行方

3代将軍・源実朝、死す…。
衝撃の事態に動揺する鎌倉をさらに揺るがす試練が、西国から降り掛かります。

京にいる後鳥羽上皇から、「摂津国の地頭を交替させよ」と要求が届いたのです。
地頭の任命は、源頼朝以来の幕府専決事項でした…。

後鳥羽上皇は、鎌倉の動揺を見越してゆさぶりをかけてきたのです。
しかも、西国側にはもう一つの切り札がありました。将軍の後継者です。

地頭を交替させないなら、親王を将軍として送らない…。
すでに内諾していた親王下向の破棄をちらつかせて、鎌倉側に要求を飲むように迫ったのです。

鎌倉側は、この西国の恫喝のような要求に屈しませんでした。
執権北条義時の弟・北条時房が、千騎の武士を従えて上洛。武力により威嚇すると、地頭交替を断り、親王については約束どおり鎌倉下向を求めました。

時房は2か月もの間粘り強く折衝しました。しかしその労も虚しく、朝廷との交渉は決裂…。
時房は親王下向をあきらめ、僅かに頼朝の血を引く右大臣九条道家の子・三寅(みとら)を将軍として連れ帰ることになりました。このとき三寅はたった2歳…。襁褓もとれない赤ん坊でした。

■北条時房邸跡

西国側との難しい交渉を任されたのが、北条一門で相模守を務める北条時房でした。
北条義時や政子の、10歳ほど離れた異母弟にあたります。

元服後は「時連」と名乗っていましたが、2代将軍・源頼家から薦められ「時房」と改名します。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では瀬戸康史さんが演じる人物。この改名によって「トキューサ」という愛称で親しまれるようになりましたね。

この"トキューサ"北条時房の邸宅があったとされる場所が鎌倉にあります。
その場所は、鎌倉の目抜き通り「若宮大路」の脇、鶴岡八幡宮のすぐ近くにあります。

(北条時房邸跡)

この場所に館を構えられた辺りに、幕府における時房の重要度が分かる気がします。
案内板に、まさに「鎌倉殿の13人」とも重なる時代の、若宮大路に並んだ邸宅地図が示されていました。

最も八幡宮に近い場所にあるのは、和田義盛と北条泰時(義時の子)の邸宅…。
和田義盛が討たれた和田合戦の折は、時房は泰時とともに若宮大路で奮戦し、武功を挙げました。

(北条時房邸跡にある案内板)

■その後の時房

和田合戦に限らず畠山重忠の乱や父時政の排斥など、時房は常に兄義時に付き随いました
それは、前述の西国との後継将軍をめぐる難交渉を終えた後も続きます。

この後「承久の乱」が起きると、時房は泰時とともに東海道を進撃し上洛。
乱後には、京に新たに設置された六波羅探題南方に就任し、朝廷の監視と西国の政治・軍事を管掌しました。

(左:六波羅探題跡の石碑、右:跡地に建つ六波羅蜜寺(京都))

義時没後も、後を継いで執権となった泰時を補佐して支えます。
泰時に請われて鎌倉に戻ると、執権を支える初代「連署」に就任。泰時とともに政務を執りました。

やがて、時房が連れ帰った三寅が元服して藤原頼経となり、鎌倉幕府4代将軍の座に就きます。
成人した頼経が上洛した際は、これに随行し、一緒に春日大社の参詣も行っています。頼経からしてみると、時房は鎌倉の父だったのかもしれませんね…。

仁治元年(1240)1月、時房はこの世を去りました。
兄義時、甥泰時と、生涯を通じて北条政権を支えた北条時房。享年66歳でした。

■基本情報

【北条時房邸跡】
名称:北条時房邸跡
住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目9
アクセス:JR「鎌倉駅」から徒歩7分

【六波羅探題跡】
名称:六波羅探題跡(六波羅蜜寺)
住所:京都府京都市東山区門脇町177−2
アクセス:京阪「清水五条駅」から徒歩8分、阪急「京都河原町駅」から徒歩15分、JR「京都駅」から徒歩30分

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