家康を辿る城旅「寺部城」家康初陣"寺部城の戦い"!渡辺守綱ゆかりの史跡も

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「寺部城」家康初陣"寺部城の戦い"!渡辺守綱ゆかりの史跡もです。

■家康を辿る物語

ついに、家康(当時は松平元康)に初陣の機会が訪れます。

ときは永禄元年(1558年)。寺部城主の鈴木重辰が今川家から離反し、織田方に寝返り。
これを受けて今川義元から、17歳の松平元康に出陣の命が下されます。

元康は、陣ぞろえのために岡崎城に入ると、松平軍を率いて寺部城に進軍(寺部城の戦い)
このとき元康は、寺部城の外郭を破り城下に放火すると、一旦岡崎に引き上げます。

その後「枝葉を刈り取ることも大事」として、付近の広瀬・挙母・梅坪の諸城を攻略
多くの敵兵を討ち取り駿府に凱旋、見事に元康は初陣を勝利で飾ったのです。

この初陣の活躍に、譜代の家臣たちは、祖父の清康の再来と涙を流して喜んだと言います。
今川義元も家康の戦功を賞し、旧領のうち山中三百貫の地を返還、腰刀を贈りました。

こうして家康の初陣は、成功裡に終わりました。
岡崎城を守る松平家臣らは、駿府に赴いて元康の帰還を要請します。しかし、それは認められませんでした。

■寺部城

それでは、そんな家康初陣となった城「寺部城」を訪れましょう。
場所は、現在の愛知県豊田市。寺部町の住宅街の一画に「寺部城跡」があります。

「寺部城址」と刻まれた石碑が建つのは、古い土塁の跡
この土塁は、家康初陣のときもあったのでしょうか…。その脇を登っていくと、広い台地が広がります。

足元を見ると、建物の礎石や井戸の跡が残っていました。
古図が残ってたんですかね…。一部には「土蔵」や「茶室」「仏間」などの案内があります。

それ以外は、特に手を加えられず、素のまま朽ちるままという感じ。
でも、こうした史跡が住宅街のなかに開発されず残ってるのはありがたいことです。

この寺部城の脇には「守綱神社」が鎮座しています。
ここは徳川16将の一人で「槍の半蔵」と称された渡辺守綱を祀る神社。大河ドラマ「どうする家康」では木村昴さん(ジャイアン!)が演じている武将ですね。

守綱は、慶長15年(1618年)に寺部城に入城。以後、明治期まで同地は渡辺氏が治めました。
守綱は寺部城跡に陣屋を築きました。いま当地に残る礎石などは、江戸時代末期から明治期の建物跡と考えられます。

■渡辺守綱

この辺り一帯は、幕末まで城下町であったことから、城下町の風情が各所に残っています。
道が細く入り組んでいて、いくつか武家屋敷も残っています。江戸期にはもっとあったんでしょうね。

(左:旧松本家長屋門、右:遊佐家長屋門)

何しろ、その土台を築いた渡辺守綱は、家康に仕えた譜代の重臣です。
守綱は16歳のときから同年の家康に仕えました。三河一向一揆の際は離反しましたが、後に赦免されると、長篠・小牧・長久手など重要な合戦で武功をあげました。

その渡辺氏の菩提寺が、寺部城跡の東400mほどのところにあります。
その名も「守綱寺」。山号は「渡辺山」です。3代治綱によって創建されました。

境内には、渡辺氏歴代当主の墓碑もあります。
もちろん初代守綱のものも…。それは多くの墓碑が並ぶ渡辺氏墓所の奥中央に建っていました。

今日の城ぶら「家康を辿る城旅」は、家康初陣の寺部城を訪れました。
ここから、武将・家康の活躍が始まります。それは、「槍の半蔵」渡辺守綱をはじめとした松平家臣団の存在も大きかったのです。

この後の家康の活躍…そして危機については、また当ブログにて綴ってまいります。

■基本情報

【寺部城跡】
住所:愛知県豊田市寺部町1丁目
アクセス:豊田市駅から徒歩30分または車で7分

【守綱寺】
住所:愛知県豊田市寺部町2丁目27−27
アクセス:豊田市駅から徒歩30分または車で8分

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