一触即発!家康対秀吉「小幡城」「龍泉寺城」!小牧・長久手の結末は?

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、一触即発!家康対秀吉「小幡城」「龍泉寺城」!小牧・長久手の結末は?です。

■家康を辿る物語

羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康軍が激突した小牧・長久手の戦い
長久手の戦いで、池田恒興と森長可を討ち取るなど勝利をおさめた家康。しかし深追いすることなく、小幡城に引きあげました。

一方、秀吉は敗報を聞き、すぐに出陣して長久手を目指しますが、本多忠勝に行軍を妨害され、戦場近くの龍泉寺城に入ります。
龍泉寺城は小幡城とは約3㎞の距離…。秀吉は翌朝に攻撃することを決めますが、夜のうちに家康は小幡城を出て小牧山城に帰還しました。

戦いは再び膠着状態に戻ります。ここでの戦況打開は難しいと判断した秀吉は、矛先を織田信雄に向けます。
その本拠・伊勢長島城をおびやかす作戦に出ると、秀吉と信雄の間で和睦が成立。家康は秀吉と戦う理由が無くなってしまい、小牧・長久手の戦いは停戦となりました。

■小幡城と龍泉寺城

長久手の戦いで勝利した家康は、深追いすることなく小幡城に入ります。
一方、敗報を聞いた秀吉は、本隊を率いて龍泉寺城に入ります。その距離3㎞で両雄は睨み合いました。今日は、そんな一触即発の「小幡城」と「龍泉寺城」を訪れましょう。

まずは「小幡城」へ。もともと織田方の城でしたが、のちに廃城。小牧・長久手の戦いのときに、三河との連絡路を保つため家康が修復しました。
城は現在の名古屋市守山区にありました。しかし、いま当地を訪れると辺りは住宅街…城跡と思しき遺構は残っていません。

駐車場の一角に立つ案内板が、ここが小幡城であることを示していました。
周辺を散策すると、わずかに土塁跡のような遺構があります。この一帯が小高い丘を形成していて、たしかに城あるいは砦を築くには適しているように思います。

家康は、長久手合戦の勝利後にここ小幡城に入ると、秀吉本隊と戦うことはせず、その日の夜のうちに小牧山城に戻りました。
肩透かしの形となった羽柴軍は、もぬけの殻となった城を徹底的に焼き払ったといいます。この戦いの後、小幡城は再び廃城となりました。

続いて「龍泉寺城」へ。織田信長の弟・信行による築城。その後廃城となっていたものを、小牧・長久手の戦いのときに秀吉が入城し、短期間で修復しました。
こちらも同じく、名古屋市守山区にあります。当地を訪れると、立派な仁王門や本堂、多宝塔が建っていました。

もともとその名のとおり、城が築かれたのは龍泉寺という寺社。永暦年間(782-806年)最澄の創建と伝わる古刹です。
現在の建物は、もちろん当時のものではなく後年に再建されたもの。ちなみに小牧・長久手合戦のときには羽柴軍が退却する際に放火し焼き払いました。

なので城跡と思しき遺構は残っていません。境内の一角に模擬天守がありますが、こちらは寺の宝物館。当時は天守はなかったと考えられます。
秀吉は3万の軍勢を率いて当地に急行しましたが、翌朝攻撃を仕掛けたときには、家康はもう小牧山に戻っていました。

家康が小牧山城に戻ったことで、秀吉も楽田城に帰還。再び戦況は膠着状態に陥ります。
ここで秀吉は、織田信雄の本拠・伊勢長島に回り込む作戦に転換します。すると、たまらず信雄は秀吉と和睦します。

その条件は、秀吉側に伊賀と伊勢半国を割譲すること。事実上の信雄の降伏でした。
実はこの前までは、秀吉はあくまで織田信雄の家臣、天下人は信長の後継・信雄でした。しかし、この降伏によって立場は逆転

これによって信長以来の織田体制は崩壊、織田の天下から秀吉の天下に移り変わったと言えるでしょう。
天下人となった秀吉は、じわじわと家康包囲網を築いていきます。どうする家康…。続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら!」にて綴ることとしましょう。

■基本情報

【小幡城】
住所:愛知県名古屋市守山区西城2丁目16
アクセス:JR「守山」駅から徒歩20分

【龍泉寺城】
住所:愛知県名古屋市守山区竜泉寺1丁目1−902
アクセス:JR「大曽根」駅からバスまたは車

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事