こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「清州城」!信長と家康の清州会見は行われていない?信長の運命を拓いた城へ…です。
■家康を辿る物語
今川氏から独立した松平元康(家康)。
新たに同盟を結んだのは、尾張の雄・織田信長でした。
永禄4年(1561年)2月頃、水野信元(元康の叔父)の仲介で、織田信長と和睦。
そして永禄5年(1562年)には、元康が信長の居城である清州城を訪問。そこで対面して同盟が結ばれたことから、これを「清州同盟」と呼んでいます。
しかし、近年の研究では、信長と家康による清州での会見は行われていないという説が有力になっています。
この時代、当主同士が直接対面して同盟することが一般的でなかったことや、信頼のおける史料に2人の会見の事実が記されていないことなどが、その理由です。
実際に、この頃の元康は、離反した今川氏との戦いに明け暮れていました。
とても三河の地を離れられる状況にはありませんでした。清州城での対面は後世の創作だろうと考えられます。
(左:清州城模擬天守、右:信長を祀る社(清州古城跡公園))
■清州城
え?清州での対面はなかったの?驚きです…。
大河ドラマでも重要なシーンとして描かれた信長と家康の会見。それが無かったなんて…。どうする家康?
でもこの時期に、今川氏を見限った家康が、清州城にいた信長を頼ったのは事実。両者の会見はなくとも同盟は結ばれました。
今川氏や武田氏といった強国を東に抱える家康にとって、西の尾張・織田氏との同盟は是が非でも必要だったでしょう。
信長にとっても、この時期は、美濃の斎藤氏攻略を狙う重要な時期。
後顧の憂いなく攻め入るために、家康ら松平勢に今川・武田の「盾」の役割を期待したものと思われます。
両者の意図が合致しての同盟。信長は、清州城で満足の笑みを浮かべたのではないでしょうか。
…ということで、このときの信長の居城・清州城へ。今日の「家康を辿る城旅」は、幻の(?)清州会見の舞台「清州城」を訪れます。
(左:川越しに見る清州城、右:織田信長像(清州公園))
■清州城
家康を辿る城旅…。今日は、信長の居城・清州城です。
清州駅から歩いて城に向かうと、目の前にドーンと天守の姿が浮かび上がりました。
壮観ですね。これぞ覇王・信長に相応しい威容…。
しかし…信長が清州城を居城としていたときは、天守はなかったと言われています。
天守を含めた大改修を施したのは、織田信長の子・信雄です。その城域の規模は、東西1.6km・南北2.8km…過去に類をみない大規模な城でした。
天守は清州城の権威を示すシンボルだったのでしょう…。現在の天守は平成元年に復興された模擬天守です。
その模擬天守ですが、内部は資料館となっています。織田信長や清州に関する史料がずらり展示…。
さらに最上階の展望台に上がると、そこから城下を一望できます。
■清州古城跡公園/清州公園
その清州城天守と五条川を挟んで対岸に位置するのが「清州古城跡公園」です。
その一角にあるのが、平成8年の発掘調査で発見された「清州城の石垣」。本丸南側の石垣と考えられ、調査後に当地に移設されました。
さらに、公園内に残る丘は、清州古城の本丸土塁跡とされます。
その頂には、信長を祀る社が建っています。「右大臣織田信長公古城跡」と刻まれた石碑も…。清州の英雄ですよね。
そんな英雄・織田信長の銅像が建つのが、古城跡公園の隣りにある「清州公園」です。
信長と正室・濃姫の銅像が園内に建っています。桶狭間に出撃するシーンを再現しているそうです。
そうです…。ここ清州城は、信長と濃姫が結婚生活を始めた城であり、また桶狭間に向けて信長が出撃していった城です。
信長は、後に小牧山城、岐阜城、安土城と居城を移しますが、ここ清州で過ごした10年弱は濃密でした。まさに、信長の運命を拓いた城と言えますね…。
残念ながら、ここ清州城での信長と家康の会見はなかったというのが有力ですが、その同盟は家康の運命をも左右しました。
その後の家康と信長については、後の当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」で語ることにしましょう。
■基本情報
名称:清州城
住所:愛知県清須市朝日城屋敷1−1
アクセス:JR名古屋駅から徒歩15分
営業時間:9時~16時30分
定休日:月曜日