
こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。
今日の夢中は、城ぶら「土浦城」!戦国の激戦を経て徳川方の城へ…武田流の築城が施された関東の名城です。

■城語り
まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。
関東は茨城県土浦の地にある土浦城。
平安時代、天慶年間(938~947)に平将門が砦を築いたという伝説がありますが、定かではありません。
文献上、城が築かれたとされるのは、室町時代中期。
常陸の豪族・小田氏に属する若泉氏あるいは菅谷氏が築城したと考えられます。
戦国時代には、小田氏と佐竹氏の戦いの舞台となります。
激しい攻城戦が繰り広げられますが、豊臣秀吉の小田原征伐の際に徳川家康が進軍。ついに力尽きて、大名小田氏は滅亡しました。


土浦城は、関東に徳川家康が入府すると、その次男・結城秀康の所領となります。
関ヶ原の戦い後に秀康が転封となると、その後は、藤井松平氏や西尾氏、朽木氏、土屋氏と城主が変わります。
江戸時代中期(17世紀後半)、松平信興の時代に城の大改修が行われ、現在の縄張が完成しました。
このとき奉行を務めたのが、武田信玄の軍師・山本勘助の子孫、菅助晴方。彼の手により、武田流の築城整備が進められました。
なお、土浦城はその後、再び土屋氏が城主に就くと、3度の加増により9万5千石に。
常陸国では水戸藩に次ぐ大きな領地を有し、明治維新まで約200年、その統治が続きました。
■城ぶらり
それでは、常陸の国盗り激戦の地、土浦城をぶら歩きします。
土浦城は、現在「亀城公園」として整備されています。
これは、土浦城の別名「亀城」から名付けられています。かつて城塁が水に浮かぶ亀のように見えたことから付けられた愛称。ちなみに、お堀には本物の亀が泳いでいました。


そのお堀を見下ろす白い櫓。1988年に復元された「東櫓」です。
城守戦の重要な役割を担ったであろう櫓。お堀の外から見るその姿はなんとも美しい…。


その東櫓が守る本丸へ、お堀に架かる霞橋を通って向かいます。
その先に建つのが「霞門」(現存)です。こちらは、本丸搦手(裏口)に当たる門。東櫓は、ここを守護していたのですね。


本丸表門に当たるのが、「櫓門」です。門の上に櫓を設けて、偵察や攻撃を行う二階門。
この櫓門の楼上では、明六ツ(午前6時)と暮六ツ(午後6時)に太鼓を打って城下に時刻を知らせていたと言われます。「太鼓櫓」という別名でも呼ばれています。


この櫓門は、本丸に建つ江戸時代の櫓門としては関東地方で現存する唯一のものです。
門の下から梁などを見上げると歴史の重みを感じられて、なんとも感慨深いですね…。


さらに、本丸西側には「西櫓」があります。こちらは1991年に復元されたもの。
西櫓は17世紀初に建造、1950年代初めまで現存していましたが、老朽化や台風などにより損壊。解体ののち復元されました。


それらの櫓や門が守るのが、「本丸」です。
いまは、かつての建物などは一切残っていません。市民の憩いの場になっています。


同じく、市民の憩いの場となっているのが、「二の丸」跡です。
遊具なども設置されていて、この日も子供たちの歓声が響いていました。そうそう、こんな平和な日々が続くといいんですよね。
その東端には、搦手門東側にあった「旧前川口門」が移築されています。


ちなみに、現在の土浦城址・亀城公園は、本丸と二の丸の一部を整備したに過ぎません。
もともとはもっと広大な城下が広がっていました。少し足を伸ばすと、かつての大手門や搦手門があった場所も見つけることができます。



茨城土浦で感じる戦国・江戸の息吹き、土浦城。こじんまりとした城跡ですが、かつての城下は広く、その歴史は奥行き深いものでした…。
今日の夢中は、城ぶら「土浦城」!戦国の激戦を経て徳川方の城へ…武田流の築城が施された関東の名城。「続日本100名城」にも選定されている土浦城でした。
ありがとう、土浦城!
■基本情報
名称:土浦城址/亀城公園
所在地:茨城県土浦市中央1丁目
アクセス:JR土浦駅から徒歩で15分
営業時間:園内自由









