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館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、決戦!関ヶ原「徳川家康最後陣跡·床几場」!家康気魄の前進、そして三成は?です。
■家康気魄の前進
天下分け目の関ヶ原…。東軍の総大将・徳川家康は最初、西軍から最も遠い桃配山に陣を敷きました。
しかし合戦当日の午前11時ごろ、膠着する戦況を打開しようと戦火只中の前線にまで前進し、石田三成の正面に本陣を移しました。
一説には、ここから松尾山の小早川秀秋を鉄砲で威嚇したとも言われています。
こうした家康の動きが味方を鼓舞したのか、秀秋ら様子見の武将を動かしたのか…。ついに東軍諸隊が西軍諸将を潰走させ、関ヶ原は家康率いる東軍の勝利となりました。
関ケ原合戦後には、その家康本陣に置かれた床几場で、論功行賞の首実検が行われました。
夕刻から始まった引見では、勝利に貢献した黒田長政や井伊直政らに手厚く労いの言葉をかけたと伝わります。
戦いに敗れた石田三成は伊吹山方面に逃亡しましたが、家康の命で三成を捜索していた田中吉政に捕縛されました。
その後、家康のいる大津に送られ、さらに大坂から京都へ護送されます。慶長5年(1600年)10月1日、六条河原で斬首されました。享年41。
■徳川家康最後陣跡・床几場
決戦関ヶ原!関ヶ原の戦いもゆかりの史跡をめぐる旅もいよいよ最後のときへ…。
今日は、徳川家康が決戦の真っ只中に陣を移し勝利を呼び込んだ「徳川家康最後陣跡」を訪れましょう。
合戦当日11時ごろ、家康は苦戦に苛立ち、本陣を桃配山から関ケ原の中央、三成本陣の笹尾山のすぐ下へ移動させました。
直線距離にして800mの間で両者が睨み合うという、なんとも緊迫した局面を演出。家康の度胸たるや、さすがは歴戦の強者ですね。
これがどれほど味方を鼓舞したかは、その後の戦局を見れば明らかでしょう。
ここから小早川秀秋に向けて鉄砲を撃ったかは真偽不明ですが、家康の気魄は秀秋はじめ西軍諸将にも伝わるほどだったと思われます。
合戦後は、この家康本陣に置かれた床几場で、討ち取ってきた敵の首実検がされました。
その後、幕府の命を受けた領主の竹中家により周囲の土塁や中央の土壇が築かれました。土壇中央には「床几場 徳川家康進旗験馘處」と刻まれた標柱が建っています。
さて、敗れた西軍諸将ですが、主だった武将の処置は次のとおりです。
小西行長。逃亡するも竹中重門の兵に捕縛。六条河原にて斬首。
安国寺恵瓊。逃亡するも京都で捕縛。六条河原にて斬首。
宇喜多秀家。薩摩国まで逃亡し匿われるが、その後徳川家へ引き渡し。久能山に幽閉の後、八丈島に配流。
長宗我部盛親。逃亡するも改易・蟄居。浪人となり、後に大坂の陣に加担。
毛利輝元。所領安堵を条件に大坂城を退去。後に反故にされ、山陽・山陰8ヶ国から周防・長門2ヶ国に減封。
島津義弘。決死の敵中突破を敢行(島津の退き口)、薩摩に帰国。和平交渉の末に本領安堵。
そして石田三成は、伊吹山に逃げ込むと、故郷でもある近江へ再起をかけて逃れます。
しかし、近江古橋で農民に匿われているところを、旧友でもある田中吉政によって捕縛。家康のいる大津へ連行されました。
大津城では門前で生き曝しにされ、東軍諸将とここで再会します。
このとき、福島正則は三成に罵詈雑言を浴びせ、黒田長政や浅野幸長は逆に労りの声を掛けました。また小早川秀秋は、三成に裏切りを激しく詰められたと伝えられます。
その後、三成は大坂に護送され、小西行長・安国寺恵瓊らと大坂・堺を引き回し。
そして京都に護送されると、六条河原で斬首されました。享年41。辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。
■基本情報
名称:徳川家康最後陣跡・床几場
住所:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原959−2
アクセス:JR関ヶ原駅から徒歩10分