
こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。
今日の夢中は、神奈川県藤沢市にある鎌倉武士の礎を築いたともいえる城跡「村岡城」を訪れます。

■城語り
まずは、物語ならぬ城語り(しろがたり)から。
村岡城は、平安時代の中頃(10世紀)に、桓武平氏の一族・平良文(村岡五郎)によって築かれたといわれます。
平良文は、相模関東に勢力を築き、坂東八平氏の祖と言われる人物です。平将門の叔父としても知られています。
鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めの際には激戦地になったと伝えられます。
戦国時代は北条氏が玉縄城を守備する「高谷砦」として利用されたと考えられており、北条氏滅亡とともに廃されたとするのが通説です。
城跡は、現在「村岡城址公園」として整備され、一般に開放されています。
■城ぶら
それでは、鎌倉への要所に位置する村岡城址をぶら歩きしましょう。
村岡城は、藤沢市東南部の鎌倉市に接する村岡地区の丘陵にありました。別名、高谷砦または村岡五郎良文(平良文)宅跡といわれます。
城跡は現在、村岡城址公園として整備されています。訪れたこの日も、子供たちが遊具で楽しそうに遊んでいました。


ただ、鎌倉時代最末期、新田義貞がこの城に布陣して鎌倉へ突入して行ったとも伝えられており、それを思うと風景が一変します。
たしかに鎌倉はすぐ目の前…。ここに血気あふれた義貞ら討幕軍が結集したのかもしれません。


村岡城址には、残念ながらこれといった遺構が残っていないので、少し足を延ばして「御霊神社」(村岡御霊神社)へ。
こちらは、村岡城主だった平良文(村岡五郎)が、京都にある御霊神社から勧請したと伝えられる歴史ある社です。


平良文は、桓武天皇を祖とする平氏で、承平天慶の乱では平将門とともに平国香と戦ったとされますが、定かではありません。
この平良文とその一族の墓は、村岡城の北東に位置する二伝寺にありました。この地の繁栄を築いたのは良文なのかもしれませんね。


なお、その子孫に鎌倉権五郎景政がいます。
景政は、後三年の役のときに片目を射られたものの、その矢を射返して敵を討ったという強者。
境内には、ゆかりの矢竹稲荷大明神と兜山七面宮が祀られています。


矢竹稲荷は、景政が持ち帰った矢をここ御霊神社の境内に刺しておいたところ、青葉が生えてたという伝承から奉った境内社。
兜山七面宮は、そのときの兜を松の木の根元に勝利の記念として埋めたという伝承にちなんで祀られた神社です。こちらは安政年間にここ御霊神社の境内に遷されました。
この兜山(兜松)があった場所が、御霊神社から少し離れた、現在の神戸製鋼の工場敷地内です。
残念ながら立ち入ることはできませんでしたが、兜松跡や石碑などが祀られていました。


ちなみに、平良文の血統は、その後も武勇に秀でた一族を生み出します。
俗に「坂東八平氏」と言われるのがそれで、一般的に、千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の八氏が挙げられます。
多くが源頼朝を援け鎌倉幕府創設に貢献した氏族です。そうそうたる面々ですね…。
そうした歴史を考えると、ここ村岡の地は、鎌倉武家社会の礎を築いた場所と言えるかもしれません。
ありがとう、村岡城! ありがとう、御霊神社!
■基本情報
【村岡城址】
名称:村岡城址(村岡城址公園)
所在地:神奈川県藤沢市村岡東3-28-2
アクセス:JR大船駅からバス「渡内第三会館前」下車徒歩8分
【御霊神社(村岡御霊神社)】
名称:御霊神社(村岡御霊神社)
所在地:神奈川県藤沢市宮前560
アクセス:藤沢駅からバス「みどりの園」下車徒歩5分、湘南モノレール「湘南深沢」駅から徒歩18分









