
こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
歴史好きの館長が、日本全国の名所旧跡をめぐる歴史散策ブログ。
今日の夢中は、時代の転換点となった「鳥羽・伏見の戦い」の痕跡を訪ねて、伏見の街をぶら歩き。
【京都伏見】維新の号砲が響いた街へ!御香宮神社から伏見奉行所跡…伏見の戦い激戦地を辿る…です。
■伏見の戦い
慶応3年(1867年)12月、「王政復古の大号令」が発せられると、京都の街は一気に緊迫した空気に包まれました。
新政府軍と旧幕府軍の衝突はもはや避けられない事態となり、両軍は京都の南の玄関口である伏見の地で睨み合います。
新政府軍の中核である薩摩藩は、旧幕府軍が本拠を置く伏見奉行所を眼下に見下ろす要衝、御香宮神社に本陣を構えました。
一触即発の睨み合いが続くなか、慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽街道を通過しようとした旧幕府軍に対し薩摩藩が発砲。
その銃声が伏見の街に届くと、伏見の各地に陣を構えていた両軍が一斉に激突しました。
ついに「鳥羽・伏見の戦い」に火ぶたが切って落とされたました。ここ伏見は、まさに戊辰戦争の出発点となった運命の地なのです…。
■御香宮神社(薩摩藩陣地跡)
それでは、激動の明治維新の号砲が響き渡った場所、「御香宮神社」(ごこうのみやじんじゃ)をぶら歩きしましょう。
神社に一歩足を踏み入れると、境内は非常に厳かな静寂に包まれています。
しかし、ここがかつて血気盛んな薩摩兵たちで埋め尽くされ、大砲が並んでいた本陣跡なのだと思うと、鳥肌が立つような緊張感が伝わってくるようです…。

(御香宮神社)
薩摩藩は開戦とともに、御香宮神社の高台に置いた砲台から、旧幕府軍がいる伏見奉行所に砲撃を加えました。
旧幕府軍の新選組や会津藩も激しく応戦をしますが、夜半に砲弾が爆薬庫へ命中して奉行所は炎上…。旧幕府軍は撤退しました。
境内には「明治維新 伏見の戦跡」と刻まれた石碑がひっそりと、しかし力強く佇んでいます。

(明治維新 伏見の戦跡)
■伏見の戦い史跡めぐり
御香宮神社を後にして、伏見の街に眠る戦いの痕跡をさらに深く辿ってみましょう。
神社のすぐ近く、薩摩軍の砲撃の標的となった「伏見奉行所跡」へと足を延ばします。

(伏見奉行所跡)
現在は集合団地となっているこの場所ですが、入口にはひっそりと奉行所跡を示す碑が建っています。
団地の塀もそうした歴史を意識したような造りですね。奉行所があった頃は石垣で囲まれていたようです。
ここに、土方歳三ら新選組も布陣していたんですね…。胸アツです。
続いて、会津藩の先鋒隊約200名が宿陣としていた「伏見御堂(会津藩駐屯地跡)」へ。
こちらも奉行所跡のすぐ近く。押し寄せる新政府軍に対し、会津藩兵は本堂の畳を盾にして、死に物狂いの銃撃戦を展開したと伝わります。
当時の張り詰めた空気感が、今も静かなお堂に漂っているようです…。

(会津藩駐屯地跡(伏見御堂))
さらに少し歩くと、「伏見土佐藩邸跡」の石碑が見えてきます。
土佐藩主・山内容堂は当初、この戦いを「私闘」として不参戦を命じていましたが、板垣退助ら倒幕派が密命を下して参戦。
歴史の歯車が大きく「倒幕」へと回転した、まさにその決断の跡地です。

(伏見土佐藩邸跡)
最後に西へ向かい、濠川沿いの京橋にある「伏見口の戦い激戦地跡」の碑へ。
伏見奉行所を落とされた旧幕府軍は、伏見から淀に退却します。その際に、この付近で凄惨な市街戦を繰り広げ、伏見の街は大火に見舞われました。
今はおだやかに流れる濠川のせせらぎを眺めていると、激戦の傷跡が嘘のよう…。泰平の世のありがたさが心に深く沁み渡りますね…。

(伏見口の戦い激戦地跡)
時代の大きなうねりとともに、武将や志士たちが命を懸けて駆け抜けた京都伏見の街。
今は穏やかな住宅街や観光地となっていますが、一歩路地に入れば過去と現在が交差し、当時の息遣いが聞こえてくるかのようです…。
今日の夢中は、【京都伏見】維新の号砲が響いた街へ!御香宮神社から伏見奉行所跡…伏見の戦い激戦地を辿る…でした。
ありがとう、京都伏見! 鳥羽・伏見の戦いの始まりの場所を巡りました。
■基本情報
◇御香宮神社
・所在地:京都市伏見区御香宮門前町174
・アクセス:京阪「伏見桃山」駅から徒歩5分、近鉄「桃山御陵前」駅から徒歩5分
・境内参拝自由。庭園拝観は有料(200円)。
◇伏見奉行所跡
・所在地:京都市伏見区西奉行町
◇会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
・所在地:京都市伏見区大坂町
◇伏見土佐藩邸跡
・所在地:京都市伏見区南浜町248−4
◇伏見口の戦い激戦地跡
・所在地:京都府京都市伏見区南浜町









